なぜマスコミは“事実”を報じなかったのか新連載・さっぱり分からなかった、3.11報道(1)(2/7 ページ)

» 2012年07月20日 08時02分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]
烏賀陽弘道氏

相場:「えくぼ記事」が掲載され始めたのは、いつごろからでしょうか?

烏賀陽:3.11後2週間くらいでパターン化していきました。阪神・淡路大震災のときもパターン化しましたが、東日本大震災はそれよりも早かった。私は朝日新聞で記者をしていましたが、かつての同僚は悔しがっていましたね。「今回はあまりにも早すぎた……」と。

相場:私は時事通信社で金融を担当していました。なので災害の現場や事件・事故の取材経験がありません。ただ小説の取材などでお世話になった人が東北にはたくさんいるので、震災後、まず宮城県石巻市に足を運びました。現地には取材に行くというのではなく、単に物資を運びに行くといった感じです。

烏賀陽:石巻市はすさまじい被害があったんですよね。全く被害に遭わなかった山側と、陸側の落差がものすごくあった。

相場:地元の人がある橋を撮影していて、「この橋が“天国と地獄”の別れ道だ」と言っていました。

烏賀陽:実際、地獄側では人がゴロゴロ死んでいるわけですから。

相場:石巻市に行くと決めたとき、現地の人からはこのように言われました。「覚悟を決めて来い」と。でも、こちらは意味が分からなかった。何の覚悟かな? と。

 で、どういう意味ですか? と聞いたところ「テレビや新聞でクルマがたくさん停まっているのを見たでしょう? クルマの中には死体が入っているから」と言っていました。そのクルマの横を、やっと学校に行けるようになった子どもたちが平気な顔をして通っているんですよ。これが被災地での日常でした。

 でもこうした現実を、大手マスコミは報道しませんでした。なぜ報道しないのか、あるテレビ関係者に聞いたところ「東京の幹部は、悲惨な現場を望んでいない。東京と現場との温度差を感じましたね」と嘆いていました。

 事実を報道してはいけないという「自主規制」が働くと同時に、「えくぼ記事」を報じなければいけないという意識が強く働いていたのではないでしょうか。東京にいる“お偉いさん”たちは、現場に無難な記事を発注しているだけ。こうした現実が透けて見えてきたんですよね。

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