男子フィギュアスケートの高橋大輔さんは、2010年のバンクーバー冬季五輪で銅メダルを獲得した後、将来のことについて「スケートアカデミーみたいなものを作ってみたい。僕はコーディネーターで、スピン、ジャンプとかそれぞれを教える専門家をそろえて……」と語っていました。結局、その後も現役続行ということでこの計画はしばらく置いておくことになりましたが、彼は将来必ず実行すると思います。
また同じように、プロ野球の読売巨人軍や米メジャーリーグで活躍した桑田真澄さんも引退表明時のコメントは次のようなものでした。「(選手として)燃え尽きた。ここまでよく頑張ってこられたな、という感じ。思い残すことはない。小さいころから野球にはいっぱい幸せをもらった。何かの形で恩返しできたらと思う」。その後、彼は若い世代への野球指導の道で精力的に活動を続けています。
一方、プロサッカー選手として現役にこだわる三浦知良さんはこう言います。「かなったか、かなわなかったかよりも、どれだけ自分が頑張れたか、やり切れたかが一番重要」「成功は必ずしも約束されていないが、成長は約束されている」(『カズ語録』より)。
勝負の世界を生き抜いてきた3人のこうした発言には、結果を出すことを超えたところにある何か深い境地が感じられます。彼らは、いまや、フィギュアスケートとともにある人生、野球とともにある人生、サッカーとともにある人生、そのプロセス自体を深くかみしめながら毎日を送っています。
もちろんプレーをすることは依然最上の喜びでしょうが、人を育てることにも強いやりがいがあるでしょう。スポーツ普及のためにさまざまな場所で論議をし、イベントを企画・開催する。そうしたことに知恵を出すのも刺激的に違いありません。そこには結果追求から解き放たれた人間が得た「ライフワーク」があります。ライフワークとは、人生の「大いなる目的」を見つけ、そこに向かう「大いなるプロセス」に没頭できる毎日です。
有名プロスポーツ選手に限らず、人生の後半から本当の自分らしさを手に入れている人たちを観察して、私が改めて思うのは次のようなことです。
このあたりのことを、賢人たちの言葉から補っておきたいと思います。
「人間の値打ちとは、外部から成功者と呼ばれるか呼ばれないかには関係ないものです。むしろ、成功者などと呼ばれない方が、どれだけ本当に人生の成功への近道であるかわかりません。だれが釈迦やキリストを成功者だとか、不成功者だとかという呼び方で評価するでしょうか。現代でも、たとえばガンジーやシュバイツァーを成功者とか、失敗者とかいういい方で評価するでしょうか。世俗的な成功の夢に疑惑をもつ人でなければ、本当に人類のために役立つ人にはなれないと思います」───大原総一郎(『大原総一郎〜へこたれない理想主義者』井上太郎著より)
「ずっと若い頃の私は百日の労苦は一日の成功のためにあるという考えに傾いていた。近年の私の考えかたは、年とともにそれと反対の方向に傾いてきた」「無駄に終わってしまったように見える努力のくりかえしのほうが、たまにしか訪れない決定的瞬間よりずっと深い大きな意味を持つ場合があるのではないか」───湯川秀樹(『目に見えないもの』講談社学術文庫あとがきより)
このお二人の無私で透明感のある言葉を、私はようやく咀嚼(そしゃく)できるようになってきました。とはいえ、次のメッセージも決して忘れてはならないものです。
「勝ち負けは関係ないという人は、たぶん負けたのだろう」───マルチナ・ナブラチロワ(テニスプレイヤー)
そう、やはり勝つという結果にはこだわるべきなのです。特に若いうちは、野心でも利己心でも、ギラギラと何かを獲得しようと動き、もがいたほうがいい。最初から結果を求めずに、「私はプロセス重視派です」なんて言うのは、実際のところ、逃避か臆病か怠慢の言いわけにしかなりません。そういう姿勢は、結局、先の2人(大原氏と湯川氏)の言った「成功を考えないこと・プロセスが実は大事であること」の深い次元での理解からも遠くなります。
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