科学の解は1つでも政策は1本に決まらない――“構造災”としての福島原発事故民間事故調シンポジウム(2/3 ページ)

» 2012年06月21日 12時30分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

科学の解が1つに決まっても政策は1本に決まらない

松本 ここまでの例示をご覧いただいたのは、構造災というイメージを理解してほしかったということです。今言ったことからすると、「あれは役人がやったことだから」「産業界のことだから」「いや、あれは大学のとんでもない学者がいたから」と言われてもしょうがないことがあるかもしれませんが、あえて言うならば他人事にできないということです。

 人ごとにできるのであれば、全責任を問われるべきスケープゴートを見つけ出してきて叩けば、幕引きができます。しかし、そういう問題ではないということが(構造災の特徴であることの)1つ目です。難しい言い方をすると、多分自己回帰的なループがあるだろうということです。

 2つ目に先例が間違っている時に先例を踏襲してしまっている可能性があると言えると思います。

 3つ目に仕事をしたことにする主義ということがあるんですね。つまり、「書類上ではこうなっています」「○○に基づいて○○という手当てをしているわけですから、おっしゃることは当たっていません」という言いわけがされることは、私たちも経験するところです。しかし、それも時と場合によって許容限度を超えた際には悲劇的なことが起こるということは、恐らく私たちが福島第一原発事故から教訓として学ぶべき点の1つかと思います。

 4つ目に先ほど秘密主義と言いましたが、秘密主義というのは多分印象操作と抱き合わせです。つまり、秘密にするから印象操作をしないといけないわけです。そして、印象操作をする結果としてさらに秘密にしないといけないことが起こってしまう。こういう秘密主義と印象操作の連鎖構造みたいなことが関わっているかなと感じている次第です。

 これからそれらの中身を示すのですが、その前に若干ほかの話をしておきますと、よく制度の上の信頼とか言われるわけですが、制度の信頼性の問題と、個人に対する信頼感の問題は分けて考えた方が無難ではないのか思います。つまり制度の信頼性が問われている時に、その人がいかに尊敬に値する人物であるかを言っても解にならないんです。逆に言うと、個人が立派であることをもって、制度の信頼性をすり抜けるということが起こってはならないということです。

 さらに同じようなロジックですが、安心と安全は違います。なぜ違うかというと、福島で経験したことは、安全ではないにもかかわらず、多くの人が安心しきっていたということです。次元が違うことを同列に並べることは極めて危険だということを言いたいです。

 次図は難しそうなことを書いていますが、簡単に言うと科学の解が1つに決まっても政策は1本に決まらないということを言っています。なぜなら科学的に唯一解が出たとしても、その解をもとにして政策を出すまでの間には予算制約とか、利害関係者との調整とか、公的空間における体面の維持とか、いろんな制約条件がからんでくるので、その過程で変形されてしまうんです。

政策の制作過程

 そういう意味での不確実性を考慮に入れないといけない。「科学さえきちんと進歩すれば、技術的な解さえちゃんとしていれば政策は1本に決まってみんな良い思いができるんだ」という想定は危ないんじゃないかと言いたいわけです。それを私の言葉で第2種の決定不全性という言い方をしています。

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