東京最後の昭和ロマン、京島に学ぶ個性的な生き方郷好文の“うふふ”マーケティング(2/3 ページ)

» 2012年06月21日 08時00分 公開
[郷好文,Business Media 誠]

取り残された歴史

 京島は明治時代には小村井村、寺島村、隅田村の一部で、大正時代に町になり、昭和の始めに向島区に編入され、戦後に墨田区に属した。東京の「京」に向島の「島」を組み合わせた地名は1965年生まれ。名前は変われど街並みが残ったのは、運と必然が重なったからだ。

出典:Google マップ

1.震災で残った

 1923年の関東大震災では、浅草通りをはさんだ南部の本所地区で火の手があがった。5万4000戸が被災し、4万8000人が死んだ。だが、北部の向島地区は被災は180戸、死者は100人足らずだった。

 人々は焼けなかった向島へ移り住んだ。震災前と比べ地区人口は倍増し(6万人→12万人)、人口増に応えるため、今も残る棟が連なる棟割長屋が建てられた。ここに職人が住み、職住一体のエリアとなった。ここから東京で一、二を争う人口密集地に育っていくのである。

2.第二次世界大戦でも残った

 1945年の東京大空襲、本所地区では死者数2万5000人だったが、向島では1500人ですんだ。これは東武亀戸線とそれに沿った小川が「防火堤」となり、この地を囲む荒川・隅田川も火をくいとめたからだ。

3.地域完結のインフラが育った

 高度経済成長期に入り、商店街が栄えた。キラキラ橘の由来である映画館の橘館は1963年に閉館してしまったが、戦前からサイレント映画の撮影所もあった。この向島橘銀座商店街を軸に、二股に分かれる道沿いの十間橋通り商店街、橘銀座を横切る曳舟たから通り商店街があり、1970年代前半にはそれぞれ100店舗以上の商店が軒を並べていた。

 そのころ、職人長屋がニットやシャツ、袋や靴の製造下請け工場として工業化を遂げた。最盛期には400ほどの工場が京島地区にあり、地域内や墨田区相手の商売でもうけたのだった。こうして京島は1丁目は工場、2丁目は住宅、3丁目は商店+住宅地区として、供給もあり需要もある職住一体地区となった。

4.バブルからも残された

 路地を再開発して、消防車が入れるようにする都市開発の波も来た。だが計画が10年ごとに書き替えられるうちに、開発の焦点は墨田区をまたぎ、葛飾区や江戸川区、千葉県へと広がった。そして不況になると計画は立ち消え、バブル期の開発ブームからも保存されたのである。

 さて問題。この街並みをどうすべきだろうか? 残すべきか、開発すべきか?

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