旧警戒区域の内側は今、どうなっているのか相場英雄の時事日想・南相馬編(1)(3/4 ページ)

» 2012年05月24日 08時00分 公開
[相場英雄,Business Media 誠]

 小高区から鹿島区に避難している住民から事前に聞いていたのは、このエリアにはかつてたくさんの住宅があったが、津波によってほとんどなくなってしまった、ということ。

 もう一度、広大なエリアに目を向けた。雑草の中に家の土台が見える。農機や生活用品の残骸がある。

 政府が引いた「20キロ」の線があったことで、宮城や岩手の沿岸地域のような復旧作業や瓦礫(がれき)の撤去がほとんどできていないのだ。

抜けずに残っている海水と残骸(左)、津波でえぐられたままの道路(右)

 津波が押し寄せたあと、住宅地だった場所に海水が残っている。雨水も溜まったのだろう。1年前、三陸の沿岸でも同じような光景があった。当時、自衛隊員が横一列に並び、水が抜けない場所に棒を指しながら歩き回っていた。行方不明者の捜索だ。

 南相馬市では、原発事故の影響で不明者の捜索も遅れたという。抜けずに残っている水を見た瞬間、私は合掌した。この場所で何人もの命が奪われたのだ。

 同時に、頭の中で昨年インタビューした小高区の杉義行さんの言葉が蘇った。

 「地震は天災だ。自家用車を取りに行った際、故郷の海岸線を走ってみた。本当に酷い状況だった。もう、なにも残っていなかった。しかし、原発事故は考えてもみなかった事態だ。この前、妻の弟の遺体が見つかった際、立ち会って火葬してきた。しかし、この(避難所生活)状況で葬式さえ出してやることができなかった。事態が正常に戻れば改めて弔うつもりだ」

 彼の無念さを理解し、完全に共有することなどできない。だが、実際に小高の海岸に赴くことで、ほんの少しだけ、やりきれない気持ちの一端を感じるとることができた。

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