「読売新聞は言論を売っていない」――清武英利氏、佐高信氏が語る出版契約裁判(3/4 ページ)

» 2012年05月18日 21時00分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

新聞社が普通の日本の会社と同じようになっている

――佐高さんはこの間まで高杉良さんと一緒に日本経済新聞と戦われてきました。大メディアが病んでいるということでしたが、日経との戦いの共通項のようなものを感じるところがあれば教えてください。

佐高 私は経済評論家と名乗ることもあり、高杉良さんは経済小説を書くと言われているわけですが、2人とも日本経済新聞は購読していません。購読しなくても何ら支障はない、逆に購読すると日本の経済や会社の姿が良く見えなくなる傾向すらあるだろうと私は思います。

 読売新聞も日本経済新聞も、極めて残念ながらその体質が日本の(一般の)会社と同じになっています。私は「新聞社が日本の会社と同じでは非常に困る」と思っているわけですが、残念ながら非常に同じようになっているわけです。それはどういうことかと言うと、ワンマンにちゃんとモノ申してチェックが働くことがなくて、読売新聞や日本経済新聞が問題になったオリンパスや大王製紙とほぼ同じようになっているということです。

 私は今まで、いろんな会社の批判をしてきました。その会社にボスやドンという存在のワンマンがいる時、このボスやドンの意向を忖度(そんたく)して、いろいろとおさえにかかる人がいることがあります。(佐高氏の批判から)しばらくしてからですが、あるドンから手紙が来て、「何も自分が知らないうちに部下がおさえていた」と堂々と書いてきたことがあるんですよね。「部下のやっていることを知らないで、お前は社長が務まるのか」と私なんかは思いますが、そういう構図になっています。

 つまり、ドンの下にモノ言わない“ミニドン”みたいなものがずっと連なっている。日本の会社というのはそういう悲しい構図ができあがってしまっていて、それと言論機関の読売新聞や日本経済新聞も同じになっているという残念な状況です

 質問の意図からちょっと外れるかもしれませんが、私は今日、日本外国特派員協会でお話ししているわけですが、日本のメディアに対して特にがくぜんとしたのは、2011年6月末の東京電力株主総会でのことです。

 メディアの記者たちは東京電力の中にある会議室に集められて、そこで映る株主総会の模様を見ていました。その時、私は「それを見ながら何かコメントしてほしい」とたまたま毎日新聞に頼まれて、会場に向かったわけですが、入口のところに「録音、録画、配信はご遠慮願います」と書いてあったんですね。

 私はびっくりして、あれだけのでたらめな安全神話を作り上げて、あれだけの事故を起こした後にそんなことを掲げるということに「ふざけるな」と思って、「何だこれ」と言ったんですね。毎日新聞の記者は「佐高はそう言った」と記録に書いたのですが、それよりもっと腹が立ってならなかったのは、そこに入っていった200人の記者が誰もそれを問題にしなかったことですよね。

 だから、挑発的なモノの言い方かもしれないですが、清武さんのこの本の問題は渡邉恒雄氏の問題ではないんです。渡邉恒雄氏にモノが言えない記者たち、メディアの問題なんです。清武さんというのはある種、“絶滅危惧種”みたいなもので、その絶滅危惧種をみなさま方が生き返らせるかどうかというのが最大の問題です。

――私は外国メディアと長く仕事をしてきたので、大震災では日本の問題点を深く感じることが非常に多かったです。その中で自主規制というものがあるとかないとか言われます。清武さんにお聞きしたいのですが、現場で「この表現はおかしい」「こういう風に書きなおせ」といったことは日常的にあるのでしょうか。現場はどんな感じなのでしょうか。

清武 私が記者だったのは2004年までなので、最近のことはあまり詳細を知りません。しかし、若い人たちを含めて、全体が委縮していることは間違いのない事実だと思います。私が一線の記者だった2000年くらいまで、またその後の部長であったり編集委員であったりした時にいろんな経験をしましたが、民主主義というのは多様な意見があって当然なので、上司が「それはダメだ」とか、同僚が「それはおかしいんじゃないか」と言うことはたくさんあると思います。ただし、それ(ダメだと言われたこと)を貫いて、認められるものは必ずあるはずです。

 今の記者は「まずやってみる」ということを基本的に避けているのではないでしょうか。トラブルを避けていることが一番大きな問題であるような気がします。読売新聞は社会部にとどまらず、全体に非常に息苦しいです。新聞記者というのは、それぞれが王国のようなものだと私は思います。今、多くの記者は、上司の決裁を経て取材をするところが多いのではないのでしょうか。

 例えば、『会長はなぜ自殺したのか』をまとめるにしても、連載をして、本にまとめるという手法は現場の記者が考えたことです。現場の記者が考えて、最終的に「これをやるよ」と言って、部長が「ああそうか」と言う、そういう時代でした。それが本来の記者の姿だと思いますし、新聞社の姿ではないでしょうか。

 校閲の時代ではないので、例え上司がどう言ったとしても、大きな記事が小さくなったとしても必ず引っかき傷を付ける記事を書く気持ちを持ってもらいたいと思います。一面トップでなければ社会面トップ、社会面トップでなければ三段記事でもベタ記事でもいいからと。そういう覚悟が求められる時代はちょっと不幸ではありますが、今はそういう厳しい時代になっているんだなあと感じています。

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