「人は常に坂に立つ」――生きる意味を考える(3/4 ページ)

» 2012年03月02日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
INSIGHT NOW!

人は坂に立つ

 いずれにしても生命の出現、そして生きているという状態は、何とも素晴らしい奇跡です。私たちは、知らずのうちに生まれてきて、知らずのうちに息をして、知らずのうちに身体が成長して、食べて、笑って、ものを考えて、愛して、感動して、刻々と生きています。そのことの不可思議さについて、ついつい鈍感になってしまいがちですが、実はとてつもなく難度の高い営みを細胞1つの次元から瞬時も休まることなく進行させているのが生命です。

 生命の哲学者、アンリ・ベルグソンは『創造的進化』の中でこう言いました。

 「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある」。

 例えば、丸い石ころを傾斜面に置いた時、それはただ傾斜をすべり落ちるだけです。なぜなら、石ころはエントロピーの増大する方へ、すなわち高い緊張状態から低い緊張状態へと移行するほかに術をもたない惰性体だからです。

 ところが、唯一、生命のみがそのエントロピー増大の傾斜に抗うように自己形成していく努力を発します。坂に置いた石が、勝手に傾斜を上っていくことがあればさぞ驚きでしょうが、それをやっているのが生命なのです。

 私は先のベルグソンの言葉と出合って以来、人は常に坂に立っており、その傾斜を上ることがすなわち「生きる」ことだと考えています。

 生命の本質は坂を上ろうとする作用です。本質にかなうことは必然的に幸福感を呼び起こします。ですから私は、人間は本来、進歩や成長を求め、勤勉の中に真の喜びを得る生き物だと思っています。逆に、本質にかなわない滞留や衰退、怠惰からは、不幸や不安感を味わいます。

 アランが『幸福論』で言った、「人は意欲し創造することによってのみ幸福である」というのもここにつながってきます。

 仕事や人生はさまざまな出来事を通して、私たちに傾斜の負荷を与えてきます。私たちはその傾斜に対して、知恵と勇気を持って一歩一歩上がっていくこともできるし、負荷に降伏をして、下り傾斜に身を放り出すこともできる。ひとりひとりの人間が、生き物として強いかどうかは、結局のところ、身体の強さでもなく、ましてや社会的な状況(経済力や立場など)の優位さでもなく、各々が背負う坂に抗っていこうとする意欲の強さであると私は思います。

Copyright (c) INSIGHT NOW! All Rights Reserved.