「人は常に坂に立つ」――生きる意味を考える(2/4 ページ)

» 2012年03月02日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
INSIGHT NOW!

 もう1つ、図をこしらえました。

 私たち生物の身体は1つの“器(うつわ)”と考えられます。この器は、開放系と呼ばれるシステムで、常に外部と内部とでエネルギーの交換をしてその状態を維持しています。

 ゾウリムシのような簡素な器(簡素といっても、現在の人類の科学をもってしてもそれは作り出せない)から、ヒトのような複雑巧妙な器まで、生物という器は驚くほどに千差万別です。そしてまた同じヒトの間でも身体の個性がさまざまありますから、器は千差万別です。

 しかも、その器は単なるハードウエアではなく、環境情報を処理するソフトウエアまで組み込んでいます。さらに言えば、霊性までをも宿している。こんなものがなぜ暗黒の宇宙空間から自然に生じてきたのか──この解を求める科学が、やがて哲学・宗教の扉の前に行き着くという感覚が、一凡人の私にも容易に想像ができます。

 福岡先生はこう表現しています。

 「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。

 だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数カ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。

 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや『通り抜けている』という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が『通り過ぎる』べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たち身体自体も『通り過ぎつつある』分子が、一時的に形作っているに過ぎないからである。

 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている」

 生物とは流れの中に生じる“淀み”であり、“容れ物”である。福岡先生は、この後、生命は構造というより「効果」であるとも言っていますが、いずれにしても、生命をとらえるはっと息を呑む定義です。

 少し難しくなりますが、清水先生の表現はこうです。

 「生命とは(生物的)秩序を自己形成する能力である」。

 「この内部世界を支配している自己意識には、時間的な継続性をともなう統合的な一体感がありますが、この継時的一体感は、その世界の内部の諸情報が、さまざまなホロニックループのネットワークによって過去から現在に至る時間を繰り込みながら連続的に統合されていることから来ているのです。意識は内なる意味秩序(セマンティックス)の絶え間ないフィードバックとフィードフォワードに複雑なネットワークの上に成立しているのです」

 生命はそれ単独では出現も進化もせず、環境やほかの生命との協働によってそれをなしていく。1つの生命(個々の細胞も、全体の生命も)は、生きることを実行していくために独自の“意味秩序”(=これが及ぶ範囲をその生命にとっての「場」と名付ける)を持っていて、そのもとに自律的かつ他律的に進んでいくという言及です。これは、仏教哲学が洞察した「空」(くう)や「仮」(け)、「縁起」(えんぎ)といった観念に通底していると思います。

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