“ゲームとしての仕事”でいいの? そこに“祈り”はあるか(1/3 ページ)

» 2011年11月25日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
INSIGHT NOW!

著者プロフィール:村山昇(むらやま・のぼる)

キャリア・ポートレート コンサルティング代表。企業・団体の従業員・職員を対象に「プロフェッショナルシップ研修」(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)を行なう。「キャリアの自画像(ポートレート)」を描くマネジメントツールや「レゴブロック」を用いたゲーム研修、就労観の傾向性診断「キャリアMQ」をコア商品とする。プロ論・キャリア論を教えるのではなく、「働くこと・仕事の本質」を理解させ、腹底にジーンと効くプログラムを志向している。


 奈良出張に合わせ、第63回『正倉院展』(奈良国立博物館:2011年10月29日〜11月14日)を観てきた。私は小学校の時から、奈良県へは遠足やら社会見学やらで何度も行ったが、大人になってからの奈良はほとんど初めてといっていい。大人になってから観る寺院や仏像、そしてこうした宝物(ほうぶつ)工芸品は何とも新鮮で、驚きの再発見が絶えない。

 展示物を観て感嘆するのは、その生々しさである。1200余年を超えても、その物自体が発する息が聞こえてきそうな感じだ。色、紋様、形状、構造、素材の質感、細部に至る技……それらは現代のデザインと比較しても、まったく古臭くないどころか、啓蒙的ですらある。

 天平文化が持つ大陸文化への憧憬と初々しさの残る国風文化との融合具合がえも言われぬ表現となって造形され、一品一品、今、21世紀に生きる私たちの目の前にある。古人は何とも素晴らしい贈り物をしてくれたものだと感謝をする。

 さて、これらの宝物は、なぜ、いまだ私たちを魅了する力を持っているのだろう───?

 確かに、1200余年という時間が横たわっていることはある。そして、もの作りの卓越さもある。制作のための化学知識や技術は7世紀にしてすでに驚くべき水準をもっていた。

 しかし、それ以上に私が感じたことは、作り手の「祈り」である。1点1点の物からは、単に技巧的に美しく見せるという以上に、人の真剣さや敬虔さ、畏怖の気持ちからしか醸し出てこないような美のオーラがあるのだ。

 作り手は、天皇という天上の存在を想い、あるいは仏(ほとけ)という最上の境地を想い、一筆一筆、一刻一刻、一織一織に祈りを込めて作り、奉献した。私は、作り手が制作という仕事の中に無垢な「祈り」を込めたところが、これらの宝物に時空を超える力を与える見逃してはならない要素だと思う。

「ゲームとしての仕事」/「道としての仕事」

 さて、ひるがえって、現代のビジネス社会に働く私たちには、仕事に「祈り」があるだろうか。

 「仕事に、イノリ?」───多くのビジネスパーソンにとってこれは突拍子のない問いかもしれない。私たちはあまりにゲーム化され、巨大システム化されたビジネスの中で働いているので、競争や駆け引きに注力しなければならないし、効率化や利益の最大化に長けなければならない。そして、大きな組織・大きなシステムの部分を断片的に任されているので、個人は、自分がどう組織や社会に貢献しているのか、お客さまとどうつながっているのかが、ますます分かりにくくなっている。どうも私たちは「祈り」から遠い世界で働いているのだ。

 仕事をカテゴリー分けするなら、1つには「ゲームとしての仕事」がある。ある種のルールと限られた資本の下で得点(お金)を取り合う──企業もサラリーマン個人も、そんな「ゲームとしての仕事」に労力を注ぐ。そうして存続のための利益や給料を得ていく。

 他方で、「道としての仕事」がある。もちろん、私たちは生きるために稼がなくてはならないが、それを第一の目的とするのではなく、その道を究めることを最上位の目的に置く──そうした意識で働いている人たちもまた世の中には少なからずいるのだ。

 サラリーマンであっても、ある割合「道としての仕事」を行うことはできる。例えば、NHKのテレビ番組『プロジェクトX』はその一例かもしれない。多少演出仕立ての面はあるだろうが、彼らは自らの仕事を道として究めようと奮闘した。あれを他人事と見過ごしてはいけない。誰にも、目の前の仕事をあのように“プロジェクトX化”させることはできるのだ。

 丸ごとの自分を没入できるプロジェクトを得た人は、仕事の幸福人である。仕事の幸福は、道を究めようとする過程にある。絶え間なく精進するその過程において、私たちは、自らが作り出すその時点での最良の作品と対面できる。道を同じくする師や同志との出会いがある。そして何よりも、道のはるか先に見え隠れする「大いなる何か」を少しずつ感得し、そこから大きな力を得ることができる。

 その次元になると、不思議と人間は、小我にわずらうことが少なくなってくる。道のもとに自分を十全にひらきたいと欲するようになる。他者や社会のために自分の能力を使いたいと願うようになる。それがつまり「祈り」ということだ。

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