僕らはたいてい、部屋にいるよりも、人と交わっているときの方がずっと孤独である(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著『森の生活』)
私たちは誰しも、「人とつながりたい」「つながりあっていたい」と願う。だからパーティーへ行く、宴会も出る、集まりにも加わる、ミクシィもやる、Facebookもやる、Twitterもやる。
けれど、つながりの拡大に比例して、一向に気持ちがどっしりしてこないのはなぜでしょう。それはそのつながりや交わりが本当のものでないからかもしれません。
じゃぁ、「本当のつながり」って何だろう?
それは少し月並みの答えになりますが、「深いところで強くつながる」こと。じゃあ、「深く強くつながる」ためにはどうすればいいのだろう?
それは「深く強く自分を突き出す」こと。そのヒントは──「Only is not Lonely」。「Only is not Lonely」は、糸井重里さんが主宰するWebサイト『ほぼ日刊イトイ新聞』のトップページに掲げられているコピーです。
「オンリー(唯一)であることは、必ずしもロンリー(孤独)ではない」というメッセージには、味わい深いものがあります。糸井さんは次のように書いています。
「孤独」は、前提なのだ。
「ひとりぼっち」は、当たり前の人間の姿である。
赤ん坊じゃないんだから、誰もあんたのために生きてない。
それでも、「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」が、
リンクすることはできるし、
時には共振し、時には矛盾し、時には協力しあうことは
これもまた当たり前のことのようにできる。
(中略)
「ひとりぼっち」なんだけれど、
それは否定的な「ひとりぼっち」じゃない。
孤独なんだけれど、孤独じゃない。(糸井重里「ダーリンコラム 2000-11-06」)
個性のない人たちが群れ合って、とがった個性や出るクイを批評し、つぶすということが組織や社会では往々にして起こります。また、孤独を怖がる人たちが、やはり孤独を同じように怖がる人たちと、不安しのぎの結び付きをすることもあります。
しかし、同時に「オンリーな人」たちが、深いところでつながって互いを理解し合い、強く創造し合うということも起こります。オンリーな存在として1人光を放とうとする時、真の友人が不思議とどこからか寄ってきます。そしてオンリーであることを研ぎ澄まそうと一所懸命にもがいていると、いつしか同じ志のネットワークのなかに自分がいることに気付きます。こうしてオンリーは決してロンリーではなくなるのです。
残業の日々が続き、ふと帰宅途中に、月明かりの下で触れた街路樹の木肌の優しさを、どうしようもなく文字にして書きつけたくなった時、その人は宮沢賢治の詩とつながるかもしれません。そしてそこでは、現代の物質文明をある距離から見つめ、自然や宇宙からインスピレーションを感じている人たちが結び付きあっています。
周囲にまん延する「しょうがない」「変わるはずがない」といったあきらめの空気のなかで、1人立ち上がって事を起こそうと戦う時、その人はマハトマ・ガンジーやキング牧師の生きざまとつながるかもしれません。そしてそこでは、世の中をよりよくしたいという情熱を持ち、けれども多くの人の内にある保身主義、悲観主義の手ごわさを痛感している人たちが心を通わせあっています。
大衆的な人気取りの芸術、権威に守られた芸術にあらがうように、1人反骨の創造の炎を燃やそうとする時、その人は岡本太郎の言葉とつながるかもしれません。そしてそこでは、認められようが認められまいが、自分の叫びを形に表そうとする人たちが勇気を与え合っています。
私たちは深く強く自分自身を突き出す時、同じように深く強く生きた人たちと、時空を超えてピーンと交信ができます。「ああ、この人も自分と同じように、いや自分以上に苦悩したんだ。そして頑張っている」──こうした心の対話ができる関係が、“本当につながる”状態を作る。
孤独は孤立を意味しない。むしろ真の孤独を知った人同士は深く強く結ばれる。そのために私たちは、孤独にものを考える時間がいる。さて今晩、寝る前の30分間、テレビを消してみてはどうですか? (村山昇)
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