デジタルの波は2つのタブーを消した……で、残りは中村伊知哉のもういっぺんイってみな!(3/4 ページ)

» 2011年11月11日 12時46分 公開
[中村伊知哉,@IT]

 特に驚いたのは、融合型電波免許。正直なところ私は、これが実現するとしても、新規に割り当てられる周波数、例えばホワイトスペースなどで一部導入される程度だろうと踏んでいた。しかし法改正で、放送局がその電波で通信サービスを提供したり、通信会社が放送局を兼業したりすることができるよう、制度の道を開くことになった。

 これは、放送・通信会社の双方に大きなビジネスチャンスを与えることになる。特に放送局は、太束の電波を使いながら、通信技術の進化やネットビジネスの拡大に対応できないでいた。その状況が変わる。

 いま私たちのグループは、放送波を使って新聞や雑誌を配信したり、デジタルサイネージ向けに情報提供したりする実験プロジェクトをユビキタス特区やホワイトスペース特区で進めているが、それらが本格サービス化することはもちろん、より大胆なサービス開発が多面的に進んでいくことが期待できる。

 つまり、タブー視し、反対してきた融合法制なるものが、実は通信より放送側に大きなメリットがある、というか通信にはほとんどメリットはないが放送にとっては相当な優遇策であることがやっと認識されたことと、海外からのITの大波が新しい展開を迫ったことという2点の変化があったということだ。

 その同じタイミングで地デジが整備されたのは偶然ではない。放送を取り巻く20年間の課題が同時にクリアされ、次のステージに進むということだ。放送のデジタル化も20年前は議論許すまじという風情だった。

 今でこそ地デジの意味は、第1に周波数資源の再調整(跡地利用)であり、第2にコンピュータとの結合(融合)であり、第3に高精細化だと認識されている(と思う)が、当時はキレイに映るメリットばかりが強調され、必要性も共有されていなかった。

 融合論は何とか議論が解禁されたが、放送デジタルはなかなかきっかけがつかめず、93年ごろには、若手官僚は爆弾三勇士的に政権トップに直訴に行こうなどと地下で密談したりしていた。それが94年、当時の江川放送行政局長の突発発言をきっかけに議論が始まり、そうなれば技術と世界的なビジネスの動きからは孤立できず、どんどん前のめりになっていった。

 もちろんその後も一筋縄というわけではない。詳しくは書けないが、当初、推進者は身の危険を感じるようなこともあったという。それも昔話になった。大活躍した地デジカくんも、そろそろ居場所を失って、すぐに懐かしキャラになるだろう。

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