原発から20〜30キロ、住み続ける決断をした人々の声を聞く東日本大震災ルポ・被災地を歩く(1/4 ページ)

» 2011年11月02日 08時00分 公開
[渋井哲也,Business Media 誠]

渋井哲也(しぶい・てつや)氏のプロフィール

book 『3.11 絆のメッセージ』

 1969年、栃木県生まれ。フリーライター、ノンフィクション作家。主な取材領域は、生きづらさ、自傷、自殺、援助交際、家出、インターネット・コミュニケーション、少年事件、ネット犯罪など。メール( hampen1017@gmail.com )を通じての相談も受け付けている。

 著書に『自殺を防ぐためのいくつかの手がかり』(河出書房新社)、『実録・闇サイト事件簿』(幻冬舎)、『解決!学校クレーム』(河出書房新社)、『学校裏サイト 進化するネットいじめ』(晋遊舎)、『明日、自殺しませんか?』(幻冬舎)、『若者たちはなぜ自殺するのか?』(長崎出版)など。メールマガジン 「週刊 石のスープ」を刊行中。

 5月、被災地の人々の生の声を集めた『3.11 絆のメッセージ』(被災地復興支援プロジェクト)を出版した。


 東日本大震災に伴って発生した東京電力の福島第1原子力発電所事故。事故から8カ月経っても、原発から20キロ圏内は警戒区域に設定されたままだ。

 一方、緊急時避難準備区域(原発から20〜30キロ圏内で、計画的避難区域ではない地域)については、「福島第一原子力発電所の原子炉施設の安定的な冷却対策が達成できた」として政府が9月30日に解除した。今回は旧緊急時避難準備区域周辺の住民たちの思いをお伝えする。

「避難所よりはここがいい」

 最初に訪れたのは福島県南相馬市鹿島区。9月13日に相馬市磯部方面から南下して、津波被害が残る沿岸部をクルマで走った。この地域の道路にはまだ復旧していないところがあり、先がどうなっているのか知りたかったのだ。

 「復興への架け橋」、そう書かれている仮設の橋がかかっていた。震災直後にここに来た時、まだ通ることはできなかった。そのため、しばらくこの道を避けていたが、震災から半年以上が経ったので、どうなっているのか確認すると、すでに通れるようになっていた。

「復興への架け橋」。5月16日には開通していたようだ。別の看板には「第五施設団(福岡県小郡市)第一〇三施設器材隊架橋中隊」とあった

 橋を渡ると、沿岸部から南相馬市に行くことができ、東北電力の原町火力発電所を遠くに眺めることができた。福島第1原発から30キロをやや超えた地点だ。この辺りはもともと田園地帯であったため、ほとんど住宅はない。そんな中、プレハブ住宅を見つけた。 

 「もともと、ここに家があったのだが、流されてしまった。残った車庫を改造して仮住まいにしたんだ。避難所よりは、ここがいいと思ってね。でも、水道や電気がなかなか通らなかった」

車庫を改造し、隣にプレハブを建てて、住めるようにした鎌田さん宅。氏神の地蔵も見つかり、鎌田さんは「氏神様が守ってくれた」と話していた

 そう話すのは鎌田雄二さん(58)。よく見ると、確かに家の土台が残っている。ここは実は個人商店の跡で、iPhoneのマップで確認すると「スーパーストア 鎌田商店」とあった。玄関の付近もわずかに確認できた。

 その玄関は妻の光子さん(52)、長男(27)、母親(76)の3人が津波に飲まれた場所だ。光子さんは助かったが、長男は遺体で発見され、母親は行方不明のまま。近所でも3人が亡くなった。

玄関の跡。妻、長男、母親が流された場所だ

 「家内は助かったが、人生観が変わった。退職まであと2年だった。仕事を辞めたら、自宅の商店の仕事と農家を兼業しながら、悠々自適に過ごすことを考えていた。でも、突然人は亡くなるんですね。家内は奇跡的に助かりましたが、人間の生命のはかなさを知った感じです」

 鎌田さんの家は福島第一原発から30.1キロの地点。東京電力が仮払いの補償対象にしている30キロ地点のやや外側になっている。しかし、交渉の結果、補償対象になった。

都はるみの曲を流しながら……

 「市では市民全員が避難対象という認識のようです」

 しかし、放射線量はそれほど高くない。この日は風が強かったためか、手持ちのガイガーカウンターで測ると毎時0.12マイクロシーベルトだった。ただ、鎌田さんは地域の将来も心配する。

 「原発事故の影響はどこまで拡大していくのか。あと10年、20年経ったら、どうなるんだろう」

 そう言いながら、都はるみの曲をカセットレコーダーで流した。

 「母が(都はるみを)好きだったんです。曲を流せば母が見つかるんじゃないかって思って、いつも流しています」

 ただ、鎌田さん夫婦は栃木県に引っ越すことを決めた。商店もたたむことにしている。私が栃木県那須町出身だと告げると、「これからお世話になります」と頭を下げた。私には何かができるわけではない。震災後、南相馬市で初めて話を聞いた夫婦も、那須に避難しようとしていた。

 福島県では那須に避難したり、引っ越しをする人がいて、身近な地域という印象があるようだ。そのため、鎌田さんは「母親の葬儀用に作った」というお酒を奥から持って来て、「せっかくだから」と私に手渡した。貴重なものではないかと思ったが、気持ちをくんでいただくことにした。

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