10万缶の“パンの缶詰”を被災地へ、パン・アキモトの支援活動とは(前編)嶋田淑之の「リーダーは眠らない」(3/5 ページ)

» 2011年07月15日 08時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

東日本大震災発生、その時パン・アキモトは?

 3月11日の震災発生当日の状況は、どのようなものだったのだろうか?

 「那須塩原は震度6弱を記録しました。地盤の関係でしょうか、隣接する地区では全壊する家屋が続出しましたが、幸いこの地区はそこまでの被害は出ませんでした。パン・アキモトでは、工場の製造ラインに被害が出ました。重量5トンのオーブンが30センチ動き、配管が切れたほか、機械のバランスが変わってしまいました。もちろん停電しました。死傷者が出なかったのは本当に不幸中の幸いですね」

 東北の被災地に対する支援活動は、いつどのような方法で開始したのだろうか?

 「パン・アキモトは那須塩原と沖縄に工場があるのですが、震災当時、那須塩原にパンの缶詰の在庫が1万5000缶ありました。

 私は即座にそのすべてを東北支援に投入することに決意しました。震災直後は時間との勝負になりますが、現地の道路事情や被害状況などは不明でした。そんな中で、とにもかくにも自衛隊なら輸送可能だということが分かり、3月13日には陸上自衛隊練馬駐屯地に取り急ぎ7200缶だけですがクルマで運び、ヘリで現地に輸送してもらいました。

 それが被災地支援のスタートで、以降、毎週私はクルマで宮城県など東北各地に赴き、付き合いのあるNGOに協力してもらって、缶詰を1軒1軒配布して回りました。私は『頑張れ』とは言いません。『パンを送り続けるから大丈夫!』と、言い続けました。

 また、被災地に向かうに当たっては極力、缶詰以外のものも持参しました。那須高原といえば牛乳が有名ですし、栃木県といえばイチゴ(とちおとめ)が名産ですから、そういうものもあわせて持っていきました。私たちのそうした動きと連動して、パンの缶詰を災害用に備蓄していた被災地以外の企業が、東北支援用に急きょ大量放出してくれたケースもありました。

 那須塩原工場の製造ラインが復旧してからは、被災地支援を中心にすえて、生産を再開しました。ただ、当地区は計画停電の対象地域だったので、それへの対応は苦労しましたね。製造途中で停電すると、パンは全部ダメになってしまいますから……」

 被災地なのに計画停電対象とは。しかも、東北地方支援を主眼とする生産活動をしているのに……いささか複雑な思いである。

被災地での支援の様子(パン・アキモト提供)

 在庫1万5000缶放出の件は私財を投げ打つ義援ということで理解できるが、その後の生産活動に関しては、営利企業として、寄付行為だけでは経営が成り立たないのではないだろうか?

 「その通りです。私はせめて原材料費だけでも出してもらえるならば、支援活動を継続しようと決意していました。すると、それを知った仲間たちが、TwitterやFacebook(「パンを被災地へ届けようPROJECT!」)で資金集めの呼びかけをしてくれまして、それで、当面は原価だけを回収する形で生産を続けることになったのです。しかし、そうした生産活動にはやはり無理があり、じわじわと経営を圧迫していったのは事実です。

 そして、もう1つ決定的だったのは風評被害です。那須塩原は福島第1原発の100キロ圏外であるにもかかわらず、那須高原や塩原温泉などのホテルや旅館にお客さまが来なくなってしまい、それらのホテルや旅館からのパンの発注が通常時の半分以下になってしまったのです。パン・アキモトは売り上げの6割がパンの缶詰ではあるのですが、残り4割の柱であるホテル・旅館への納入が落ち込んだのは打撃でした」

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