避難所の閉鎖、仮設住宅暮らし――震災から3カ月、相馬市と旭市の今東日本大震災ルポ・被災地を歩く(4/5 ページ)

» 2011年07月09日 08時00分 公開
[渋井哲也,Business Media 誠]

 仮設住宅は原則2年。その後のことを考えているのだろうか。

 「私の家は、旭市の中でも、津波被害が最もひどかった地域。家は流されてしまった。そこに住もうとは思うが、プレハブを建てたって、お金がかかる。あるのは土地だけ。売ろうと思っても、もう地代が安くなっているという噂だ。少なくとも購入時よりは安い。息子は東京に来いというが、迷惑をかけるので行かない」

 男性は元の場所で住むことを考えている。しかし年金生活では、これから貯蓄するにも限度がある。半年後には収入に応じて家賃を支払わなければならない。先の展望は決して明るいものではない。

自動車も自販機も流されたが……

 避難した他の人は、アパートに行ったり、親類の家に身を寄せた人もいた。そうした人たちが、仮設住宅が決まって続々と入居してくる。この日も、新たに仮設住宅に入居することが決まっていた。

 仮設住宅には入らず、自身の家を片付けて復活した「食料品店」がある。この日は、女性(70)が1人で店番をしていた。夫(73)は震災の疲労もあり、入院中とのことだ。

 震災当時は、津波は家まで浸水したものの、女性はかろうじて命が助かった。当時を振り返る。

 「津波がやってくるとは思わなかった。津波がきたときには、中庭にある木につかまりました。夫は家のテーブルの上に乗っていました。2人とも首まで浸かりましたが、なんとか助かった。でも、いろんなものがなくなった」

 女性は当初、飯岡小へ避難したが、その後は親類の家に世話になった。自動車4台も流された。合わせて1000万円以上の損害になるという。また、13台ある自動販売機も3台しか残らなかった。ただ、メーカーが新しい自販機を用意してくれたので、今では13台ともに戻っている。商品の値段も安いため人気のようで、訪れる客が絶えなかった。

津波に注意の看板、年月の表示が「22.3」となっていた(6月11日)
2人が津波で流された場所には花が置かれていた(6月16日)

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