震災から3カ月、南相馬に住むということ東日本大震災ルポ・被災地を歩く(3/4 ページ)

» 2011年07月02日 10時20分 公開
[渋井哲也,Business Media 誠]

 美幸さんは、市内の老人保健施設でケアマネージャーとして働いていた。震災当時は、長男の志賀貞博君(15)が中学校の卒業式だった。働いていた施設は津波の被害にあった。亡くなった利用者もいたが、美幸さんは施設にいなかったために無事だった。

美幸さんが働いていた南相馬市の老人保健施設。津波の被害にあい、亡くなった利用者もいた(6月11日、クリックすると拡大)

 その後原発事故のためもあり、3月16日午後に避難することになる。ガソリンがなかったために、一旦は栃木県那須塩原市に避難した。そして、実家のある埼玉県へ。

 それまでは葛藤があった。施設が壊滅的になっていたために、利用者を別の施設に振り分けることが必要だった。また、職員の雇用問題もあった。そのため「利用者と家族を天秤にかける」格好になっていた。

 夫の志賀久俊さん(46)は、美幸さんの実家へ避難していたが、その後、福島県いわき市四倉に行くことになる。美幸さんにとっての義父は当時、デイサービスを利用していた。そのバスが利用者を乗せたまま被災し、連絡が取れなくなっていた。その後、義父はいわき市内の病院へ運ばれたことが分かった。こうしたいきさつで、義母と久俊さんはいわき市へ行くことになった。

「緊急時避難準備地域」は「危ないから絶対出ていけ」じゃない

 久俊さんも大変な思いをした。彼は浪江高校の教師をしていたが、高校は避難指示が出ている浪江町内にあるために、生徒の安否確認や高校をどのように存続するのかで揺れていたのだ。現在は、二本松市にある安達高校でサテライト授業をしており、そのため単身赴任の状態が続いている。

 「今は進路を担当しているが、まずは、求人の連絡先をどうすればいいのか。6月末には求人票の提出が始まるんです」

 美雪さんはずっと実家にいたものの、5月4日になって、貞博君の高校再開のめどがついた。原町高校は、相馬高校内でのサテライトが決まった。美雪さんが貞博君に意向を聞いてみると「原町高校に行きたい」と言う。理由は「友達がいるから」。

 しかし、美雪さんは心配の種が絶えない。現在の住宅は線量が低いとは言えないからだ。私が持っているガイガーカウンターでは、幹線道路沿いのコンビニで0.18μSv/h程度だが、美雪さんの家の庭の空間線量は1μSv/h前後だった。さらに側溝は3μSv/hを超えている。室内でも、窓際(暑いので窓を開けている)は0.6μSv/hくらいになっている。子どもたちの発ガンリスクを考えると、悩んでしまう。

 「原町区は『緊急時避難準備地域』で、それは『危ないから絶対出ていけ!』ではない。政府も『今は大丈夫』というものでしょ。決め手がない。絶対に危険と言われれば、長男を説得できると思う。でも、人口だって戻ってきているんです。長男の意志をねじ曲げてまで、避難させる根拠があいまい。かといって、長女と次男のことを考えると心配になる。私、30キロ圏内は『避難指示』になると思っていた。なぜ、グレーゾーンにしたのか。屋内待機って、それは見捨てられたと同じなんじゃない? もうメディアでは被災地は復興ムードになっているけど、福島はそれどころではない。忘れられていると思う。毎日が苦しいです、いつまでこんな状態が続くのか……」

 もし南相馬市から離れるなら、実家に戻るという選択があるが、現段階では長男が高校に通っているという状況がそれを許さない。であれば、相馬市に引っ越すという選択もある。私が「相馬市のほうが線量は低い」と話すと、それを一度は考えていた。しかし、これも長男の高校の事情がある。

 「今は、南相馬市から通っている生徒にはスクールバスが出ているんです。そのため、もし相馬市に引っ越すとなると、スクールバスが使えなくなるんです。相馬市に引っ越すにしても、相馬高校に近くないと、通学に不便になるんです。どうせ引っ越すとなれば、福島県内ではないですね」

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