児童、生徒、避難住民が共存する小学校――陸前高田市(3)東日本大震災ルポ・被災地を歩く(1/2 ページ)

» 2011年05月31日 05時40分 公開
[渋井哲也,Business Media 誠]

 4月20日、3度目となる岩手県陸前高田市入りをした。前日は宮城県七ヶ浜町で取材し、岩手県奥州市に宿泊した。ホテルから陸前高田までは約2時間の距離。この日、陸前高田市内の小学校では始業式が行われる。その時間に間に合わせるため、早い出発となった。

 私が向かったのは、陸前高田市立広田小学校。陸前高田市の中心部からやや北東に位置し、半島になっている地域にある小学校だ。私がこの地域を最初に訪れたのは、4月7日。陸前高田市の中心部ではない地域を取材したかったのだ。広田小学校の松村仁校長に話を聞いた。

高台にある陸前高田市広田小学校。避難所にもなっている
教室で笑顔を振りまく児童たち

手ぬぐいでつくったSOS

児童たちに挨拶をする松村校長

 陸前高田市の中心部ほどではないが、この地域も津波によって家々が流されている。また、広田へ至る道は、津波によって浸水した形跡がある。このあたりは震災が起きて初めの3日間孤立した。そのため、広田小学校の向かいにある高田高校広田校舎のグラウンドには、手ぬぐいでつくった「SOS」の文字がある。孤立した状況の中で、地域の住民達が救助用ヘリコプターになんとか見つけてほしい、と願って作ったものだ。

 広田小学校は、標高20メートル、海からの距離は約1キロだったためか、津波の被害を免れ広田地区の避難所になっている。当初は300人ほどが集まって来ていたが、4月7日当時で230〜240人、20日当時では170人となり、徐々に減ってきている。

 しかし近くの広田中学校は震災によって校舎が使えなくなったため、小学校の教室を借りて授業を行っている。つまり、小学生と中学生の通常授業を同じ校舎内で行っている。それに加え、避難住民が身を寄せる。さらに校庭には仮設住宅が造られるといった非常事態が続くのだ。

 始業式の前、児童たちが荷物を移動している姿が見られた。避難生活の場になった教室から、新しく用意された別の自分たちの教室へと運んでいたのだ。その横を、避難住民や中学生が通っている。こうしたことは震災を経験しないと見られないだろう。

 「県の施設も中学校も水につかってしまった。広田地区で使えるのは広田小学校だけです。一階の普通の教室は、地区ごとに避難生活をしています。二階の空き教室だったところを授業に使います。避難者と共存していく形をとります。子どもたちには、棲み分けのルールを守ることと同時に、自分たちが元気で過ごすことで、よい影響を与えるようにしていきたい。あせらず、状況に応じながらやっていければいい」(松村校長)

自分の荷物を運ぶ児童たち

 広田小学校によると、死亡または行方不明の児童はいない。ただし家が全壊して、避難生活をしている児童は29人(4月7日現在)。家族や親族が死亡、または行方不明となったのは7人。また、家族を亡くした職員が4人、家やアパートが流出した職員は9人。児童と職員に犠牲者はなかったが、家族を失ったり、家を失った児童、職員が多かった。

 この地域でも、地震が発生したら津波を連想する住民が多いようだ。学校では津波への備えもしていた。「津波訓練は毎年、中学校と一緒にやっています。地震とは別に津波訓練をしています。この地域では『地震=津波』という意識は強いんです。DVDを教材にした学習もしています」(松村校長)

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