東京電力社長の「土下座」は何を意味するのか吉田典史の時事日想(2/3 ページ)

» 2011年05月27日 08時00分 公開
[吉田典史,Business Media 誠]

権限と責任があいまいの中で

 土下座をする社長の後ろに控える5〜6人の社員らの行動にも目を向けたい。映像を見ると、「清水、土下座しろ!」と怒号の後、まず社長が膝をつく。そして、手をついて頭を下げる。そのすぐ後に5〜6人が同じようにお詫びをする。彼らは、社長よりも先に膝をついていない。きっとこのメンバーで事前に打ち合わせが行われ、「社長が頭を下げるときには皆も一緒に」という合意があったのだろう。

 ここで考えたいのは、あのメンバーは本当に土下座をする必要があるのか、ということ。言い換えれば土下座をするだけの仕事や、それにともなう権限と責任などを日ごろから与えられていたのだろうか。

 前述の本をもとに考えてみたい。岩田氏は、日本企業では社員らの責任意識について説明している。「(社員各自の)責任範囲が不明確であるために、“誰が責められる”べきであるかは必ずしも明確ではなく、また、責任連帯の意識によって、責められるべき人の範囲はきわめてあいまいかつ流動的となる」(105ページより抜粋、カッコは筆者)

 つまり、日本企業は「柔軟な職務構造」になっていて、いざとなるとなんでもやらざるを得ない。「私はこれしかやらない」という考えでは、上司や周囲の支持は得られない。これは、今回の東京電力の謝罪についても言えることだ。あのメンバーの中には、日々の仕事において職務や権限、責任があいまいであり、例えば「福島にある発電所の関係部署にいるから……」という説得力のない理由で、社長とともに土下座をせざるを得なくなっている人もいると私は思う。ここに、日本企業で働く会社員の不幸がある。

 見方を変えると、企業内では何らかの大きな問題が生じない限り、それぞれの社員の権限と責任が強く自覚されることがないと言える。このあいまいな空間であるからこそ、不都合が生じると責任の押し付け合いになる。そこでは立場の強い者が弱い者になすりつけることすら可能になる。東京電力で言えば、会長と社長の関係もその一例と見ることができないだろうか。

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