ゲームは単なる娯楽という1ジャンルを超えて、今や私たちの生活全般に広がりつつある。このコラムでは、ソーシャルゲームや携帯電話のゲームアプリなど、すそ野が広がりつつあるゲームコンテンツのビジネスモデルについて、学術的な背景をもとに解説していく。
恋は盲目、あばたもえくぼ。勘違いでも何でもいいから、結婚という一大事には、かなりの決断が必要だ。
ところが、結婚しなければ生きていけないような差し迫った状況が、昔に比べて少なくなっている。家電やコンビニが発達し、1人分の生活費を稼ぎながら細々と独身生活を送っているとそれなりに快適で、結婚への切迫感が薄らいでいく。自分1人である程度できてしまうという錯覚は、決断への足かせになる。
私の決断は、仮想世界における勘違いから始まった。
オンラインゲームには、1人で剣のレベルを上げるだけでは先に進めなくなる“壁”がある。ほかのユーザーとパーティを組んで、傷を癒やす魔法をかけてもらい、互いに助け合わないと何もできない。現実世界では1人でいるのが好きなのでマイペースでやってきたが、ゲーム世界で初めて他者を強く求める気持ちが芽生えた。
ゲーム世界では、レベルが高いだけでその人が魅力的に見えてくる。彼は、単純にレベルが高かっただけでなく、蘇生能力を持っていた。一度死んでも、息を吹き込んでくれる。そんな強烈な体験は、現実ではなかなか得られない。
さらには、敵に殴られたくらいでは即死しない、打たれ強いヒーラー(回復役)だった。モンスターが大量に湧くダンジョンでは、ヒーラーの存命に全員の命がかかってくる。最後まで生き残った彼に、パーティ全員が蘇生されたこともしばしばだった。攻撃に耐える姿も、回復魔法を唱える横顔も、ログイン時に浮かび上がるハンドルネームさえ、何もかもが格好良く思えた。
「夫はマンモスを狩りにいき、自分は木の実を採取して待つ」原始時代さながらの分業観がふと脳裏によぎった。今では得られにくい、他人がいなければ存命すらできないという、生々しい実感だ。正確には、前衛に立って敵をなぎ倒していたのは、私の方だったが……。後ろに彼がついてくれるから、安心してHPぎりぎりまで削って敵を倒せる。そんな信頼感がなければ、ゲームといえども息の合ったプレイはできない。
街角で待ち合わせをして、彼が現れる。なぜいつものヒーラーの衣ではないのか、なぜあの自慢の杖を持ってきていないのか、頭が混乱した。だが、会話をすると、まぎれもなく“彼”だと分かった。話し方も思想も価値観も、私の知る“彼”と同じだった。
会っていると、目の前の彼の姿とネット上での認識(アイデンティティ)と、2つの人格が交差するようで、疲労感を覚えた。それを察してか、早々に帰宅して夜中にゲーム世界で落ち合うことになった。昼間に会っている時よりも夜にゲームをしている方が、何でも話し合える気がした。
ゲームキャラと現実の姿が融合するまでに、半年はかかった。身体的特徴や職業といった現実世界の属性と、ゲーム時代から知っていた精神性とが統合し、新しい存在ができたようだった。
仮想世界でのデジタルな出会いが1度目だとすれば、現実世界でともに過ごし徐々に信頼を形成していくのは第2の出会いであった。彼という同じ人に2回出会ったような気がした。
ネットと現実の人格の再構成という2度目の出会いは、自然に起こることではなく、互いに歩み寄ろうとする当人たちの意志によるものだと思う。だからネットで意気投合したからといって、何でも上手くいくとは限らない。
一方で、仮想世界の出会いはそれほど特別ではないとも考える。結婚して生活をともにしてから「こんなはずではなかった、幻滅した」とよく聞くので、現実世界でも似たことは起こりうるのではないか。
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