メディアは報じる、「震災で亡くなった人=美談」と吉田典史の時事日想(3/4 ページ)

» 2011年05月13日 08時00分 公開
[吉田典史,Business Media 誠]

 町長も津波が来たときに庁舎にいた。屋上に上がり、手すりにしがみつき難を逃れたという。ギリギリのところまで職務を遂行したのだから、それは称えられていい。だが、地震が発生し、津波が押し寄せてくるまでの30分間の対応や、その瞬間の状況が分からない。遠藤さんの父親は『週刊新潮』の取材にこう答えているが、意味の深い言葉に思えた。「津波が来るまで30分はあった。だから、逃げる時間はあったはずなんだ。放送を切り上げて、せめて10分でもあれば…」

 町長らには当日のそれぞれの職員の対応や役割分担、権限と責任、さらに役場としての危機管理マニュアルや避難訓練のあり方などを含め、明らかにしてほしい。それが遠藤さんの死を無駄にしないことだと思う。

最悪の事態を想定

 大槌町の加藤宏暉町長もその死が“美談”として報じられた。町長らは、地震発生後、役場前の駐車場で災害対策会議を開いた。そこでは20〜30人の職員が机などを持ち出し、準備を始めていた。そのときに波にさらわれ、役場から500メートルほど離れた国道沿いで、遺体として見つかった。課長級の7人も亡くなり、4月21日現在、職員の死者・行方不明者は25人になっている。

 加藤町長は、行政の長として職務を完遂したと言える。しかし、部下である町役場の職員が多数亡くなっている以上、「美談」として扱うのは避けたい。当日の実態はきちんとおさえたほうがいい。

 朝日新聞(4月21日)によると、役場の周辺で「津波だ」という叫び声がしたとき、町長は東梅副町長らと一緒に庁舎の階段を駆け上がり、屋上に上がろうとした。だが、押し寄せる波に飲み込まれたという。

 この様子から察するに、「死を覚悟して職務を遂行していた」のではなかったのだろう。きっと生きたかったに違いない。部下である職員らも津波から逃げている以上、死ぬことを前提に会議を開いていたとは思えない。

 災害対策会議を開いた場所が庁舎の前であったことが、この町役場の防災意識を物語っている。大槌町では、震度5以上の地震が発生したり、津波警報が発令されたときは、町長を本部長とする災害対策本部を設けることを定めていた。そして地震などで役場の庁舎が使えない場合は、高台にある公民館に対策本部を設けることを決めていた。ところが、職員たちは高台に避難することなく、役場の前で会議を開いた。

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