奇妙な鉄の棒の正体は? 被災地で見たもの相場英雄の時事日想・震災ルポ(4)(3/4 ページ)

» 2011年05月12日 08時00分 公開
[相場英雄,Business Media 誠]

水浜

 雄勝の中心部から5分ほど走ると、カーナビが目的地周辺だと告げ、案内を止めた。丘の上の集落が見えたので左折すると、急に道幅が狭くなった。山間の集落では、しばしばこうした道路がある。公道の感覚で進むと、いつのまにか民家の軒先に突き当たってしまうようなケースだ。

 だが、先をうかがうと、筆者はまたも誤解していたことに気付かされた。道が狭くなっているのではなく、津波によって民家がそのまま道路の中心までスライドしていたのだ。ここでも津波の暴力に絶句する。

 クルマを後進させ、表通りに戻る。すると、道路の先に自衛隊車両が停車した避難帯を見つけた。ここにクルマを停め、無線傍受係の隊員に尋ねると、かつて保育所として使われていた場所が避難所だと教えてくれた。

 筆者が避難所に顔を出すと、ちょうど地区の主婦たちが炊き出しの真っ最中だった。ご婦人方は驚くほど朗らかな表情で筆者を迎え入れてくれた。元来、東北人、特に宮城県人は人見知りが多い。初対面、しかも髭面(ひげづら)の筆者のような不審者は警戒されて当然なはずなのに、海辺の小さな集落、しかも大惨事を経験したあとにも関わらず、皆さんの表情が朗らかなのだ。

 筆者は、当ルポの(3)で登場した同地区出身の大学院生、Aさんの言葉を思い出した(関連記事)。雄勝は地域の結び付きが強く、団結力があると聞かされていた。非常時でも、個人同士の結びつきが生きているからこその笑顔、そして朗らかさだったのだと納得した。

 筆者はAさんの親御さんを探した。Aさんからも聞いていたが、同地区は市街地に比べ犠牲者が少なかった。産経新聞によれば「住民は380人中、死者1人、行方不明者8人で全体の2%程度。背景には、地域で受け継がれてきた知恵や防災意識の高さがあった」

 住民の中で高齢者の比率が高く、先人の教えが徹底されていたことが奏功したのは間違いない。

 ほどなくして、Aさんの母親、Cさんに出会う。筆者はクルマから食糧、長靴、軍手などの必需品のほか、石巻日日新聞から預かった同紙のバックナンバーを手渡すことができた。また、拙宅に毎週届く週刊誌、漫画誌の類いに加え、漁師さん用に焼酎の特大ボトル、煙草も提供させていただき、わずかばかりの支援物資搬送という役割を終えた。

 だが、石巻の市街地でがれき処理を行う地元民に出会ったときと同様、避難所に暮らす水浜の人たちにファインダーを向けることができなかった。

 折しも、筆者とは別便で大量の物資が到着したばかりで、避難所が忙しく動き出していたこともあるが、朗らかな表情の住民とは対照的に、かつて集落があった場所の被害がすさまじ過ぎたからだ。ほとんどの家屋が流された直後であり、忙しく動き回る人にカメラを向けていては、明らかに邪魔になると判断した。またもジャーナリスト失格である。

雄勝町水浜地区

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