震災直後の、学校の対応は適切だったのか吉田典史の時事日想(3/4 ページ)

» 2011年05月06日 08時00分 公開
[吉田典史Business Media 誠]

不運が重なり、悲劇に

 地震の後、何人かの保護者が車で児童を迎えに来た。教職員がスクールバスや保護者たちへの対応をしていると、時間は刻々と過ぎていく。その後、教職員は児童らを引率し、学校を後にした。列の前に低学年の子ども、後ろに高学年。一行はこうして農道を歩く。向かったのは、200メートル程離れた小高い新北上大橋のたもとだった。そこの高さは、2階建ての校舎の屋根とほぼ同じだ。

 学校の裏には標高200メートルほどの山があるが、そこには向かわなかった。校長によると、「山は泥炭地であり、足が滑るので階段を作ることができたらいいな」と教職員らと震災前に話し合ったことがあったようだ。当日、教職員らは山に登ることは危険と判断したのかもしれない。

 皮肉なことに、教職員と児童らが向かった橋の方向から波が押し寄せてきたのだ。『「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前から波が来た。逃げなきゃと思った」。(生き残った)教諭はその瞬間を(教育委員会に)こう証言したという。波は河口とは逆方向の橋のたもと側から児童の列の先頭めがけて襲いかかった』(産経新聞4月15日、かっこは筆者)

 地震発生から津波が到達するまでに40〜50分はあったという。だが、どこに避難するかと迷ったり、おびえる児童の対応をしたり、引率をしながら道を歩くと、この時間は短かったのかもしれない。激しい勢いの波は地域一帯に押し寄せ、教職員や児童は流された。一部の教職員や児童は山まで走り、そこを駆け上がり、難を逃れた。逃げ遅れた児童らの遺体は学校近くの沼地やがれきの下、500メートルほど離れた田んぼなどで見つかった。

 地震発生から津波が来るまでについて、前述の教師は分析する。

 「職員間でどこに避難するかいろいろと意見が出たのだろう。当日の現場の混乱が想像できる。この後、どうするのか! どこに避難するのか! 避難する方がいいのか! という具合に。若い先生は、子どもたちを落ち着かせるのに精一杯だったはず。仮に管理職が不在であれば、地域のことがよく分かっているベテランの先生が先導しただろう。

 全校児童108人は私の感覚では1学年分の人数。そんなに手間取る人数ではない。大きな地震の直後という状況からすると、子どもを整列させるのに時間がかかったのかもしれない」

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