震災後見えてきた流通の明日の姿――それは“善き商人”であること郷好文の“うふふ”マーケティング(2/3 ページ)

» 2011年04月21日 08時00分 公開
[郷好文,Business Media 誠]

震災で見えてきた流通課題

 まず物流面では、物流センターや工場の集約化を進めたことがアダになった。1カ所被災しただけで、商品供給に大きな支障が出た。自動化が進んだ物流センターは、電気なしでは稼働できない。センター調理、センター包装も一時停止。仕入れ先の集約による規模の追求も、効率重視のジャスト・イン・タイム納品も、大規模化した製造のメリットも、1日3便制などの少量補充方式も、すべて否定されたと言っていい。盤石に見えた食品流通、実は毎日綱渡りの上に成立していたのだ。

 販売前線の課題はどうだろうか。ガソリン不足や計画停電で巨大な郊外モールがダメになり、近場で通えるコンビニや地元店舗が力を出した。「本部通達」でシャッターを降ろすチェーン店よりも、停電でも懐中電灯で営業する地場店舗に親近感が増した。ネットスーパーも機能停止。実は備蓄なんかない業態なのだ。復旧は地震の1カ月後だった。今夏の計画停電で“輪番節電”(時間をずらして冷却)する都心の自販機も多くがムダ。過剰だと分かった。

 余談だがいつもは24時間営業する某外食チェーンが、震災当日に帰る手段を失ったお客さんを、「震災だから」と言って夜0時に追い出したという。お客さんより本部が大切なのだろうか?

 ミネラルウオーターやお米、パン、即席麺が出払ったスーパーやコンビニ。空の棚と空にならなかった棚を見ていると、「必需品は案外少ないな」と思った。「不要」「代替可能」なものばかり。いかに店舗にはムダな商品があふれているかを思い知らされた。コンビニで毎週のように発売される新商品もムダ。低品質のPB(プライベートブランド)商品も、競争力のないNB(ナショナルブランド)商品もムダ。震災は商品力を冷徹にフルイにかけてくれた。

 食品の安全性も課題がある。放射能汚染をきちんと測定する設備とシステムを持つ流通業は、生協くらいだった(参照リンク)。基準は政府まかせ、検査は地元まかせで、販売責任を誰が持つのか? さらに農産物が検査合格しても、買い付けを拒否する流通業や食品製造業がある。こんな時こそ被災地の生産者を応援してほしいと思ったのだが。

スーパーマーケットというモデルの終焉

 震災での気付きをひと言で言えば、大型スーパーやショッピングモールなど、大規模で効率を追うビジネスモデルや、作り手と消費者が遠く離れるチェーンモデルは正しいのか、曲がり角に来ていないかという疑問だった。

 そもそも現行のスーパーのセルフサービスモデルができたのは1916年、1世紀も前のことだという。メンフィスに開業した「ピグリーウィグリー」が発祥で、当時客は回転扉を抜け、店内に入りカゴを取り、通路をぐるぐると歩いて商品を選び、集中配置したレジで代金を支払う。一方通行で歩きカゴに入れ、支払いを済ます「ショッピングコンベア」を実現したのだ。

ピグリーウィグリー

 この大量販売とセルフサービスは、その後1世紀続いているほどの革命だが、代償もあった。それは売り手が売りたいものしか、買い手が買えないことだ。商品の多くが大量仕入れ可能な物ばかりになり、地元の少量の良品が買えない。さらに対面販売での触れ合いも失われた。一部で進んでいる無人レジは、スーパーをまるで巨大な自販機のようにする試みである。

 忙しい現代人、もちろん効率は必要。でも、この震災でコンビニや地元店舗が頼りになったことで、触れ合いや助け合いの大切さが身にしみた。近所の小さな店舗で必需品が「少し高くても」揃うことは価値がある。大量購買、安値追求だけではない流通トレンドが見えてきた。それを3つのキーワードにまとめると「ローカル」「垂直透明」「善き商人」である。

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