小沢元代表の強制起訴に見る、検察審査会の危うさ藤田正美の時事日想(2/3 ページ)

» 2011年02月07日 08時00分 公開
[藤田正美,Business Media 誠]

 検察審査会が小沢氏の強制起訴を議決したときに出した議決要旨にはこうある。「検察審査会の制度は、有罪の可能性があるのに、検察だけの判断で有罪になる高度の見込みがないと思って起訴しないのは不当で、国民は裁判所に無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利があるという考えに基づくものだ。嫌疑不十分として検察が起訴をちゅうちょした場合、国民の責任で公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度だ」

 強制起訴となった1月31日、小沢氏本人が声明の中で、検察による通常の起訴のように「有罪の確信」があってやっているわけではないと反論した。確かに、この議決文に表れた考え方はどうにも納得できないところがある。1人の人間を起訴するのは国家の権利であるが、同時に圧倒的な権利であるだけにそこには強い制限がある。それはそうだ。むやみに「怪しい、有罪の可能性がある」などと言って起訴されては、個人の権利などあったものではない(国家というものがどれだけ反体制派の人々を、あやふやな罪状によって起訴し、裁判にかけて刑務所や強制収容所に送り込んできたか。その例は枚挙にいとまがない)。だからこそ、近代国家では個人の権利を侵害する(身柄を拘束したり家宅捜索をする)には相当の理由がなければならず、捜査当局だけでなく裁判所の許可が必要とされる。

「人民裁判」になりかねない

 そう考えると、検察審査会の言う「有罪の可能性がある」ということと、検察庁が起訴の根拠とする「有罪になる高度の見込みがある」ということの間に存在する天と地ほどの開きに改めて驚かざるをえない。刑事裁判の被告人として法廷に引き出されることになれば、その人はもちろん通常の生活を送ることはできない。長期にわたる裁判の過程で、もし被告人になっていなければできた活動も、得られた利益も失うことになる(障害者郵便制度不正利用事件で起訴され、昨年無罪がとなった厚生労働省の村木厚子氏も、1年以上にわたって休職処分となっていた)。

 だからこそ「有罪になる高度の見込み」が要求される。しかし、議決要旨はこう言う。「国民は裁判所に無罪なのか有罪なのかを判断してもらう権利がある」。一見、正しそうに見えるこの一文には、危険なワナがあると思う。強制起訴は国家権力の行使である以上、「有罪であることを確信するだけの根拠」が絶対に必要であるのに、「黒白をつける」などとまるで民事裁判のような言い方だからだ。

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