小沢元代表の強制起訴に見る、検察審査会の危うさ藤田正美の時事日想(1/3 ページ)

» 2011年02月07日 08時00分 公開
[藤田正美,Business Media 誠]

著者プロフィール:藤田正美

「ニューズウィーク日本版」元編集長。東京大学経済学部卒業後、「週刊東洋経済」の記者・編集者として14年間の経験を積む。1985年に「よりグローバルな視点」を求めて「ニューズウィーク日本版」創刊プロジェクトに参加。1994年〜2000年に同誌編集長、2001年〜2004年3月に同誌編集主幹を勤める。2004年4月からはフリーランスとして、インターネットを中心にコラムを執筆するほか、テレビにコメンテーターとして出演。ブログ「藤田正美の世の中まるごと“Observer”


 小沢一郎元民主党代表が強制起訴された。これを受けて、政治家としての責任論や民主党としての処分、あるいは国会喚問といった議論がかまびすしい。民主党の失点として攻撃する自民党をはじめとする野党、党内権力闘争で小沢一派を蹴落とそうとする民主党非小沢派とが、ある意味、不毛な争いを繰り広げている。政治もマスコミも「強制」という言葉に寄りかかって、いかにも“怪しい政治家”というイメージづくりに狂奔しているかのようだ。

検察審査会のあり方

小沢一郎

 小沢氏自身はかつてこう語ったことがある。検察が2度にわたって起訴を断念したのだから「自分は真っ白」だと。しかし検察の起訴断念と「真っ白」とは同義ではない。「黒であることを公判で立証するのが難しい」ということが断念した理由である。だからこそ検察審査会が2度にわたって起訴相当とした。

 しかし検察審査会のあり方には強烈な違和感がある。個人を罪に問えるのは、国家である。だから国家組織としての検察庁が存在し、そこが組織としての判断に基づいて、人に刑事責任を問う(もちろん国家がそれだけの正統性をもっていることが条件だ)。はるか昔には、小さなコミュニティが罪に問うたこともあるが、およそ近代国家では人を罪に問うのは国家に限られる。

 検察審査会とは一般市民から無作為に選ばれた人々が、検察庁という司法機関の判断に対し、信用できないとか納得できないと異議申し立てをする機関だ。2005年の法改正前は、検察審査会の判断に強制力はなかった。検察は再度捜査した上で検察審査会の判断を無視することもできたのである。しかし今では検察の判断を超えて、起訴することが可能になった。これが強制起訴である。

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