第42鉄 海底駅、連絡線、昭和の記憶――津軽海峡の今昔を訪ねる杉山淳一の+R Style(2/6 ページ)

» 2010年10月28日 14時48分 公開
[杉山淳一,Business Media 誠]

 「あけぼの」の青森着は09:56、「白鳥3号」の青森発は11:56。待ち合わせに2時間もかかるが、実はこれがちょうどいい。青森駅近くに青函連絡船「八甲田丸」が保存されていて、青函連絡航路の博物館になっている。それを見学すれば、青函航路と青函トンネルという、津軽海峡の今と昔を楽しめる。

「あけぼの」青森駅に定刻到着。いつまでも走り続けてほしい
青函連絡船八甲田丸。背景の吊り橋は青森ベイブリッジ

1983年、桟橋のラジオ体操

 青函連絡船の廃止と青函トンネルの開業は1988(昭和63)年のことだった。もう22年が経過している。20代以下の若い人は青函連絡船の現役時代を知らない。30代の記憶にもほとんど残っていないだろう。すると40代の僕は青函連絡船を知る最後の世代だろうか。青函連絡船が廃止されたとき、私は21歳で信州大学に在学中。自動車免許を取ったばかりで、ターボ付き軽自動車で峠を走り回っていた。鉄道趣味から離れていた時期だ。青函連絡船の旅はそこから少し遡って、1度目が1981(昭和56)年の夏、2度目が1983(昭和58)年の秋、最後が1987(昭和62)年3月31日。この日は国鉄最後の日で、新幹線や特急を含め、国鉄全線の自由席が乗り放題となる「謝恩フリーきっぷ」を使った。

 1983年、2度目の旅のことは今もよく覚えている。石川さゆりの名曲「津軽海峡冬景色」と同じように、上野発の夜行列車で青森に着いた。秋だから雪はなかった。私は急行「八甲田」か「十和田」の自由席に乗ってきた。これは、北海道の国鉄に乗り放題の「北海道ワイド周遊券」を使ったから。今はなきワイド周遊券は、フリー区間まで急行列車の自由席を利用できる。急行の自由席は12系客車で、背もたれが直角の4人掛けボックス席がズラリと並ぶ。シーズンオフだから空いていたけれど、固い4人掛け席で一泊すると、身体の節々が凝り固まった。

 早朝の青森駅で急行を降りて、ホームを海へ向かって歩いた。階段を上がると連絡船桟橋への通路があった。かなり広い待合室があり、連絡船に乗る人々は乗船名簿用の紙に名前を記入して出発案内を待っていた。乗船名簿の紙は、急行列車の車内で車掌さんが配っていたような気がする。その紙は桟橋を通るときに係員に渡すまでしっかりと持っていた。静かな待合室で、ベンチはすべて埋まっていた。私は何をするともなく立っていた。

 突然ピアノ音楽が鳴り響いた。ラジオ体操の曲だ。旅人に身体をほぐしてもらおうという配慮だろうか。すると、座っていた人は立ち上がり、立っていた人も荷物から手を離し、ほぼ全員が体操を始めた。もちろん私も加わった。周囲は大人ばかり。身体の動かし方を覚えている人はキビキビと動き、うろ覚えな人は周囲を見渡しながら遅れて付いていく。その様子は夏休みの朝の公園に集まる小学生のようだった。体操の後は旅人たちにゆるい一体感があり、桟橋や乗船中で譲り合いの気持ちができたような気がする。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.