ベルリンの壁崩壊から20年……その後の姿に迫る松田雅央の時事日想(2/4 ページ)

» 2010年10月19日 08時00分 公開
[松田雅央,Business Media 誠]

 当時撮影された資料映像にはハンマーで壁を一心不乱に叩き壊す人々の姿が映っている。最初は衝動的な行動だったのだが、あるとき誰かが破片を記念品としたり、みやげ物として売ることを思いつく。以後、色付きの壁は表面を剥ぎ取られて、記念碑的に残る壁のほとんどが見るも無残な状態だ。壁崩壊から20年以上経った今も相変わらず「ベルリンの壁の破片」と称するコンクリート片が売られているが、本物かどうかはなはだ疑わしい。

ポツダム広場に立つベルリンの壁(左)、表面を剥ぎ取られたベルリンの壁(右)

悲劇の壁

 1961年、突然建設が開始されたベルリンの壁は数え切れない生死のドラマを生む舞台となった。検問所チェックポイント・チャーリー(跡)の近くにある壁博物館には、東ベルリン市民がいかにして壁を突破したのか、その資料が展示されている。トンネル、車高の低いスポーツカーで検問ゲートの下を強行突破、列車の棚に載せたトランクに身を隠す、さらには自作の熱気球まで、考えうるありとあらゆる方法が実行に移され、およそ30年間に5000人が西ドイツへ亡命・移住した。

 しかし3000人が逮捕され、192人が命を落としている。逮捕者に比べ死亡者が大幅に少ないのは警備側がなるべく生け捕りにするよう努力したからだ。とはいっても人道的な理由ではなく、背後関係を知るのが目的だったとされる。

 壁崩壊間近の時期に逃亡者を射殺した国境警備隊員がいる。再統一後、被害者遺族の訴えにより殺人罪で起訴され裁判にかけられたが、彼らは単に国の命令に従っただけだった。本来なら彼らに命令を下した、あるいは射殺しないよう命じるべきであった上官や政府指導者が訴えられるべきであったのに。そもそも、それ以前の射殺についてはなぜ誰の責任も問われないのか? 問題を大きくしたくないという、政治の都合が透けて見える話だ。結局この国境警備隊員は体のいいスケープゴートにされたわけだが、再統一後しばらくは複雑な市民感情と政治的矛盾が混沌と渦巻く状態が続いた。

 再統一前、東ドイツから西ドイツへの移住は不可能だったわけではなく、年金受給資格のある65歳以上になると希望者には許可が下りるようになっていた。ただしその理由も、その分だけ東ドイツの年金負担が減るという実に都合のいいものだった。

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