「どうか、加害者にはならないで」――。殺された側の声を聞く吉田典史の時事日想(2/4 ページ)

» 2010年10月01日 08時00分 公開
[吉田典史,Business Media 誠]

 松村氏自身も犯罪被害者である。1999年11月、当時2歳8カ月の孫娘を、知り合いの主婦に殺された。「月日が流れれば、忘れるなんてことはありえない。わたしの孫は病気や事故でなく、殺されたのだ。思い起こすと、いつも怒りと憎しみがこみあげてくる。この口惜しさは経験した者にしか、分からないだろう」。孫の命日などには「生きていたら、いまごろ中学生になっていたな」などと家族と話し合うことがあるという。

 「孫はまだ小さかったから、人を疑うことを知らない。その主婦を信じてついていったのだろう。それで事件に巻き込まれた。“無念”といった想念みたいなものは幼いながらも、きっと感じただろう」

殺された側の命はどうなるのか

 わたしは15年前に、62歳で死んだ父のことを思い起こした。胃がんであったが、息を引き取る3時間前から苦しんでいた。あのときの表情を思い浮かべた。人は楽には死んでいけないのである。“生きたい”という思いで必死にもがき、苦しむものなのだ。たとえ、2歳の子であってもその瞬間は何がしらの抵抗をしたはずだ。声を出したり、手を動かしたりと。

 その“生きたい”という意思を一切否定する行為が殺人なのである。これは重大な人権侵害であり、ゆるしがたい行為である。死刑廃止の立場に立つ弁護士、学者、ジャーナリストたちは「人権が大切」と言うならば、殺された側の人たちと直接会い、耳を傾けるべきだろう。松村氏によると、こういった人たちは会を訪れることもなければ、遺族とも接点をもたないという。

 松村氏の孫を殺した主婦は逮捕され、懲役15年を言い渡された。現在は、服役中である。そのことについては、きっぱりと言う。

 「服役を終えたところで許すことはできない。本人が反省したところで、孫は帰ってこない。自らの命でしか、人を殺した罪を償うことはできない。当然、死刑にするべきとわたしは思っていた。死刑廃止の考えの人たちは『殺した人にも人権があり、命は大切』と言う。では、聞きたい。殺された側の命はどうなるのか……。被害者の家族に『死刑執行のボタンを押させてほしい』と言う人は多い」

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