さて、ここから本記事の大事な結論に移ろう。
私たちは、物事を自分の理想に近づけようと努力をする。特に仕事上の目標や人生の目的(夢や志)を達成するためには、相当大きな、そして継続的な努力を要する。しかし、その努力が“結果として”報われるがどうかは、残念ながら誰にも分からない。
血のにじむような努力をした人でも、それが報われなかった事例を私たちは周りで多く目にしている。かといって、この世の神さまは非情だと嘆いてみてもしょうがない(神様は非情でもなく、逆に同情的でもない。人間の情に関係なく、因果に透徹なだけだ) 。
そうしたことを前提として、大事なことが2つある。
2は少し分かりにくいので説明しよう。努力の報われ方には2種類ある。1つは「結果として報われる」こと。つまりその努力の後に、何かしら意図する形・現象が得られること。もう1つは、「プロセスとして報われる」こと。これは、その努力という行為そのものが自分への大きな報酬となっていて、結果いかんに関わらず、すでにやっている最中で報われている状態を言う。
例えば、私たちが何かのボランティア活動で汗を流したとしよう。その時、私たちはその行為の結果に拘泥しない。それをやったことによって、どれだけの人にありがとうを言われたとか、多少のお礼金をもらえたとか、そういったことは主たる関心ではなく、ともかく自分が意義を感じた行為をやったことに対し充足感を覚える。これがプロセスとして報われている姿である。
だから、大事なことの2つめは、努力しようとする行為に意味を付与することだ。そこに意味を見出しているかぎり、それは「やりがいのある努力」になり、結果がどうあれ自分は報われる。
大切な私たちの時間と労力である。くれぐれも、やることに意味を与えず(つまり、いたしかたなくそれをやり)、しかも結果が何も出なかったというような「最悪の努力」は避けなければならない。
結局、自分のキャリアや人生を「努力が報われる」ものにしていくための根本は、やっていることに意味を与えること、あるいは、やっていることを意味あるように作り変えていくことに行きつく。
意味を感じていれば、まずプロセスとして報われる。そして、努力の継続もできる。自分の感じている意味が、ほかの人も感じられるような意味であれば、彼らからの共感や応援も加わる。そうこうしているうちに、自他ともの努力の質と量が臨界点を超え、グラン・ジュテは否応なしにやってくる(と信じたい)。
神さまは同情的でも非情でもないが、意地悪ではないのだから。いや因果に透徹な神様であればこそ、しっかりとした因を作れば、必ずグラン・ジュテは起こせる!……そう構えていたい。(村山昇)
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