冒頭の山登りの例では、一応、Aさんを「low aimer」、Bさんを「high aimer」とした。だが、このとき私たちは、「5合目までで満足」としたAさんを意気地のない「low aimer」として揶揄(やゆ)できるだろうか?
high/lowは相対的なものである。Bさんが「high aimer」であるのは、あくまでAさんとの比較においてである。では、エベレスト級の山にチャレンジする登山家から比べれば、Bさんはどうなのだろう。そうなればBさんだって「low aimer」なのだ。職場で向上意欲をもって頑張っている人でも、壮絶な人生の戦いをした歴史上の偉人から比べれば、やはり「low aimer」なのだ。
だから、私たちはAさんを一概に揶揄できないし、見下してもいけない。それどころか、Aさんは5合目からの帰り道で、道端に咲く一輪の花をじっと深く見ていたかもしれないのだ。山の喜びは、何も登頂だけにあるとは限らない。むしろ登頂ばかりを目指して、足元にある自然からの感動をすっ飛ばしているなら、それこそBさんは不幸人である。
で、本記事の結論。Aさんがいいとか、Bさんがいいとか、そんな小難しいことを考えず能天気にいこう! 能天気人はいつもの世も幸福だ。
……そう言いたいところだが、1つ訂正したほうが良いと思う。それは「能天気」を「楽観主義」に変えること。能天気と楽観主義とでは含んでいる意味がまったく違う。フランスの哲学者アランが「楽観は意志に属する」と言った通り、楽観主義には物事をプラス思考で期待的に見ていきながら、どこかに「最終的にはこうするぞ」という意志がある。そのおおらかな意志があるからこそ、どんな状況でも強くいられる。
ところが、能天気というものは、意志のない気楽さである。根拠のない安逸といってもよい。だから最終的には自分に無責任な態度である。周囲の人に迷惑をかけることもしばしば起こる。
「どんなに豊饒で肥沃な土地でも、遊ばせておくとそこにいろんな種類の無益な雑草が繁茂する。精神は何か自分を束縛するものに没頭させられないと、あっちこっちと、茫漠たる想像の野原にだらしなく迷ってしまう。確固たる目的をもたない精神は自分を失う」(モンテーニュ『エセー』)
能天気はその場は明るくやり過ごせるかもしれないが、モンテーニュの言う通り、確固たる目的(=意志)を持たないがゆえに、最終的にはだらしなく野原をさまよい、そして自分を失うことにつながりかねない。だから能天気ではなく、楽観主義がいいのだ。
楽観主義には意志がある。その意志は、aim(目標)を生む。そのaimはhighでもlowでもなく、自分なりのaimだ。その意志は、そのaimに意味を与える。その意志は、際限なくふくらむゴム風船にモノを詰め込む欲求ではなく、自分の想いを形にした器をこしらえようとする作陶意欲である。こしらえた器に満ちるものをほかに分けてあげることも、また意志のうちの1つである。
「自分は職業人として、どんな器を作り、あるいは自分自身がどんな器であり、どれだけのものを人に注いでいるか」、こんなことを考えてみると、ちょっとどきっとする。(村山昇)
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