なぜイチローは、この男に語り続けてきたのか35.8歳の時間・石田雄太(2/6 ページ)

» 2010年06月18日 08時00分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]
イチロー・インタヴューズ』(文春新書)

 しかし3〜4年もすれば、転勤するのが当たり前の組織です。スポーツのディレクターが在籍している局は東京と大阪だけだったので、それ以外のところに配属されればスポーツから離れ、事件や事故などを追いかけなければなりません。でも、ボクは報道志向が強かったわけではなく、単純に野球が観たい、野球場に行きたいというだけだったので(笑)、正直、報道の仕事にはあまり興味を持てませんでした。

 そして、実際に異動の内示を受けました。その瞬間、自分の中で「プチン」と、何かが切れてしまったのです。これでしばらくは球場に行けなくなる、野球選手のことも追いかけられなくなる……そう思ったら、辞める決断を下すしかありませんでした。

世の中のレールから降りる人生

 NHKでは3年と4カ月働きました。中学から高校に行くことは当たり前だと思っていましたし、高校から大学に行くことにも何の疑問も抱きませんでした。大学を卒業すれば、就職することが当たり前。まさに“世の中のレール”にずっと乗っかっていた人生です。しかし、そのレールから降りても、誰からも文句を言われない現実にある意味、ショックを受けました。なぜなら極端な話、世の中、お金さえあれば働かなくてもいいってことになってしまうんですから。そんな価値観はそこまでの人生にはあり得なかったし、あの時期は仕事って何のためにするんだろうというようなことばかり考えていました。

 ブラブラした生活を6カ月ほど送りながら、「どこか他の会社に入ろうかな」なんて甘いことを考えていました。でも、自分の好きなことばかりをさせてくれる会社なんてありません。このロジックだと、きっとまた会社を辞めなければならなくなる。そんな悶々とした日々を送っていたときに、NHKの元同僚や他局の知人から「単発でテレビの仕事をしてみないか?」という声をかけてもらいました。貯金も底をついてきていましたし、それならと、フリーの立場で仕事をさせていただくことにしたのです。

 1つの仕事が次の仕事につながって、いつしか食べることには不自由しなくなりました。そして「どこかの会社に就職しなくても、こういう形で生きていく方法があるんだ」と思うようになりました。そこからフリーの生活が始まったのですが、当時はスポーツ情報番組を手掛けるフリーのディレクターがほとんどいませんでしたし、NHKでは原稿も自分で書くのが当たり前でしたから構成作家の仕事もこなすことができました。きっと、隙間を埋める存在として、重宝がられていたんだと思います。

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