ハリウッド・スターの光と影――マイケル・J・フォックスあなたの隣のプロフェッショナル(4/6 ページ)

» 2010年05月16日 20時52分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]
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マイケル・J・フォックス『ラッキーマン』。半生を振り返り、仕事、家族、パーキンソン病との闘いについてつづった自著

 1992年、まず断酒して、アルコール依存症の治療に取りかかり、前向きな一歩を踏み出した。時間はかかったが、パーキンソン病に関しても、次第に見方を変えてゆく。この病気は、自分や家族から多くを奪う存在ではない。自分はあくまでも自分であり、そこにパーキンソン病というファクターがひとつ付加されただけなのだと。

 病気への抵抗・否定の時期を抜け、受容の時期に入った。それとともに、家族との間の深い溝も徐々に埋まっていったようだ。1970年代、高校を中退してハリウッド入りしたマイケルだったが、長年そのことが心にひっかかっていた。1994年、高校卒業資格試験(G.E.D.)を受験し、卒業資格を獲得。

 家族との関係を中核にして、一歩一歩、地に足の着いた生活へと人生を再構築していったことが分かるこの時期を、マイケルは「心豊かで生産的な日々」と回想している。それどころか、そうした人生を送れるようになったのは、パーキンソン病のお陰であり、自分は「幸運な男(ラッキーマン)」だとまで言い切るのだ。

カミングアウトとその衝撃

 時は流れて1998年。パーキンソン病は確実に進行していた。絶妙なタイミングで飲んでいるつもりの薬だが、状況次第で効き始めるまでの時間にたびたび差異が生じるようになり、しかも、効いたら効いたで、今度は、それまでの震えや硬直化が緩和する反面、手や足が勝手に大きく飛び跳ねるという現象が頻繁に見られるようになってきた。

 この年、マイケルは脳外科手術を受ける。しかし、隠し通すのはもう限界だった。当時、マイケルは、テレビドラマ「スピン・シティ」の大成功で多忙な日々を送っていたが、彼の病気を知る一部番組関係者の調整の労苦も並大抵ではなかった。共演者たちはもとより、公開収録に際して、マイケルのコンディション次第で長時間待たされることになる観客たちに対しても、これ以上隠すことは好ましくなかった。そして、マイケル・J・フォックスにとって「心豊かで生産的な日々」をさらに一歩前進させるべき時期が訪れていたということであろう。

 1998年11月、ついに彼はパーキンソン病であることをカミングアウトする。

 反響は凄まじかった。米国でもカナダでも、連日、新聞やテレビのトップニュースで報じられた。それも繰り返し、繰り返し。その多くが彼の人格を尊重するタイプの報道であったことは、彼や家族をほっとさせた。やがて報道の重心は、それまで必ずしも知られていなかったパーキンソン病そのものを紹介するものへと移ってゆく。

 自分の正体を隠し、インターネットのパーキンソン病患者コミュニティに入ってみたマイケルは驚いた。自分がカミングアウトしたことで、コミュニティがにわかに活性化していたのだ。

 そして彼は知る。自分が大スターだから病気を隠さざるを得なかったのではないということを。若くしてパーキンソン病を発症した人たちは、職を失うこと、社会から差別され疎外されることを恐れて、みな一様に病気をひた隠しにしているのだということを彼は初めて知ったのだ。「自分だけではなかった……!」自分の告白を歓迎してくれる仲間たちがここにいる。

 マイケルのカミングアウトはどのように評価されるべきだろうか? 彼の症状は比較的軽く、さらに最高の医療を享受できていた。恵まれた立場にいた彼の比較的軽い症状が、あたかもパーキンソン病の平均的な症状であるかのごとく、多くの人から誤解された可能性はある。しかし、世間的にあまり知られていなかったこの病気への社会的関心が、マイケルのおかげで一気に高まったことは否定できないし、それは患者への差別や疎外を減らすことにつながったことだろう。

 また、彼の症状が比較的軽かったことは、もう1つのメリットをもたらした。彼はカミングアウト後、パーキンソン病の治癒法発見に向け、精力的に活動を開始したのだ。

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