伝説の“呼び屋”は何を交渉してきたのか――ドクターKこと、北谷賢司35.8歳の時間(3/6 ページ)

» 2010年05月14日 08時00分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]

 いろいろなことを経験してきましたが、中でも米国のプロ・アメリカンフットボールのNFLを招へいしたことは印象に残っていますね。NFL側と本格的な交渉が始まったのは、1988年の夏のこと。東京ドーム開業にあたって後楽園スタヂアムはNFLを招へいしようとしましたが、交渉はなかなかうまくいきませんでした。当時、アメリカンボウルは英国で2回開催されていましたが、いろいろなトラブルが起きていたので、NFL側も海外で試合を行うことに二の足を踏んでいたのでしょう。

 それでもアメリカンボウルにはジョー・モンタナ(当時サンフランシスコ・フォーティナイナーズ所属)というスター選手がいたので、われわれとしては公式戦を東京ドームで開きたいという思いは強かったですね。もちろん招へいに力を入れていたのは後楽園スタヂアムだけではなく、大手の広告代理店やテレビ局なども動いていました。しかし、当時の後楽園スタヂアムは“場貸し屋”と思われていたので、周囲からは「奴らが権利を取れるわけがない」と見下されていました。また内部でも「無理ではないか」という弱気の声がありました。

交渉を終えたあとの達成感

コロンビアのプラタ経済産業大臣(右)に客員教授就任辞令を授与した 

 NFL側との交渉では、まず日本で試合をすることは「安全である」「支障をきたさない」ということを説明しました。そもそも米国で予定されている試合を、わざわざ日本で行うわけですから、その分のお金を埋め合わせしなければいけない。またチケットの売り上げ、マーチャンダイジング、スポンサーシップ、放映権――4つの収益があるということを示さなければいけません。お金の面だけではなく、練習場や宿泊所の確保、食事なども提供しなければいけません。選手やスタッフ、チアリーダーなどを含めると、1チームで100人以上。両チーム合わせると人員は300人を超え、結局、ジャンボ機2機をチャーターすることになりました。

 スポンサーには東芝が手を挙げてくれました。1987年に起きた子会社、東芝機械ココム違反事件により、米国では“東芝叩き”が続いていました。当時の青井舒一社長(1997年に逝去)は、米国でのイメージを回復させるために、米国の国技ともいえるアメフトの日本招致に乗り気になってくれました。

 もちろんNFL招致をめぐって、競合他社からも同じ規模の金額が提示される可能性はありました。そうなると、交渉がとても重要になってきます。交渉というのはどこで主張を引っ込めて、妥協するかというタイミングが大切だと思っています。こちらもいろいろな条件を言いたいし、もちろん相手も言いたいことはたくさんあるはず。ただし出された条件の中には、ゆずれるものとゆずれないものがあります。相手が絶対にゆずれない条件を、強引になんとかしようとする人がいますが、それではなかなかうまくいきません。

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