“偏差値神話”は本当なのか 日大が早稲田をアゴで使うとき吉田典史の時事日想(2/3 ページ)

» 2010年04月16日 08時00分 公開
[吉田典史,Business Media 誠]

日本社会の能力観には2つのニュアンス

 その本は『日本的経営の編成原理』(岩田龍子、文真堂)という学術書であり、もう30年以上前に書かれたものだ。著者の岩田氏は当時(武蔵大学教授)、終身雇用や年功序列など日本的経営を文化論からアプローチすることで一躍注目を浴びた。

 岩田氏は、学歴うんぬんを論じる前に、日本の社会の能力観には2つのニュアンスが含まれていると言及する。

 「(1)能力は、ある漠然とした、一般的な性格のものとしてうけとめられることが多いこと (2)能力は、訓練や経験によってさらに開発されるべき、ある潜在的な力であり、したがって、ただちに実用に役立つ力、つまり“実力”とは考えられていないこと」(150〜151ページから抜粋)

 一方で、米国の能力観を「訓練と経験によって現実に到達しえた能力のレベル」(149ページから抜粋)ととらえている。そして、これらの能力観から、日本の競争とは違った意味合いを持つ競争になると説く。「米国社会では、人びとは、いわば局部的にしか競争にまき込まれていない」「競争における個々の勝敗は、人生における長い一連の“戦い”の局面にすぎない」(149〜150ページから抜粋)

 そして日本の能力観にもとづくと、次のような意識を人々が持つことになりがちと説く。

 「“できる人”は潜在的によりすぐれた一般的能力を賦与されており、彼がその気になりさえすれば、いかなる領域においてもすぐれた力を発揮するのであり、逆に、“駄目な奴”は乏しい潜在的な能力しかもちあわせていないために、何をやらせてもうまくゆかないのである」(151ページより抜粋)

 さらに岩田氏はこう進める。

 「わが国では、一流大学の卒業生達は、その“就職戦線”において、他の卒業生よりはかなり有利な立場に立っている。このことは、彼らが、“実力”において他に抜きんでているからではない。むしろ、これは、彼らがよりすぐれた“潜在的な能力”をもっていると“想定”されるからであり、入社後の長期にわたる訓練の結果、次第にその“能力”を発揮すると期待されているからである」(151ページより抜粋)

“能力”を発揮すると期待されていない人がブレイク

 いかがだろうか。読者の中には、岩田氏のとらえ方に違和感を感じた人がいるかもしれない。私は、この本を始めて読んだ1991年のときは、ところどころに疑問を感じた。ここまで単純明快に言い切れるのだろうか、という問いである。しかしその後、取材の仕事を20年近くすると、その間に見てきたものとかなり重なるものがあると思うようになった。

 例えば、私が就職活動をしていた20年近く前にも多くの企業の人事部員が、「学歴なんて関係ない」といったことを就職情報誌などで説明していた。だが、少なくとも歴史のある大企業は、いざふたを開けると、東大卒業生を中心に採用していた。これは、いまも大きくは変わらない。当時もいまも岩田氏の唱える日本的な能力観に支配されている限り、結局は変わらないのである。

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