海外メディアは日本に定着するのだろうか? WSジャーナル・小野由美子編集長35.8歳の時間(2/6 ページ)

» 2010年03月19日 08時00分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]

将来は英語を使った仕事

 日本に帰国したのは9歳のとき。小学校4年生のときでした。5年ぶりに日本に戻ってきたわけですが、たくさんのことに驚きましたね。例えばニューヨークの小学校では体育の授業がありません。また跳び箱や鉄棒といったモノがありませんでしたので、私は全くできませんでした。

 またニューヨークの小学校では時間割がなかったせいか、「日本の学校は窮屈だなー」とも感じましたね。しかし小学校6年生の秋、今度はロンドン郊外にあるサットンという街に引っ越すことに。当時の私は、学校の先生になることが夢。そのために中学受験を考えていて、受験勉強をしていました。しかしロンドンに行くことが決まり、「自分の人生が大きく変わってしまう」と感じていましたね。

 サットンという街はニューヨークと違って、のんびりとしていました。高いビルも少なく、マンションに住んでいる人も少なかった。電車も30分に1本ほどしか走っていません。私はサットンの街にある女子中学に通っていたのですが、そこは日本の学校に似ていましたね。制服があったり靴下の色が決まっていたり。もちろん時間割もあって。

 また週に1日ほど陸上ホッケーをして楽しんでいたのですが、中学3年生のときに再び引越しすることに。行き先はまたニューヨーク。当時の私はロンドンの高校に行こうと決めていたのですが、また父親の仕事の都合で「自分の人生が大きく変わってしまう」と感じていました。

 そしてニューヨーク郊外、ポートワシントンに住むことに。地域のある公立高校に通っていたのですが、「父親の仕事の都合で、また引越しするかもしれない」「どこの国の大学に行くのか、分からない」といった不安がありました。また「将来は英語を使った仕事をしたい」と漠然と考えていたので、とりあえず勉強だけはしていました。

 当時の性格はというと、どちらかというと大人しいタイプ。また小さいときから本を読むのが好きだったり、作文の授業でエッセーを書いたりするのが好きでした。

写真左=A:ポートワシントン、B:クイーンズ、写真右=A:サットン(出典:Google Map)

翻訳がうまくできない

 日本で生まれニューヨーク、日本、英国、ニューヨークと転々としてきましたが、大学受験を前に日本へ戻ることに。そして筑波大学の国際関係学類の1期生として入学しました。中学生くらいまでは学校の先生になるのが夢でしたが、このころは英語を使った仕事をしたいという気持ちが強かったですね。なので自分の英語力を高めるために、通訳のアルバイトをしていました。

 また大学3年生のときには翻訳のバイトをしていたのですが、うまくできませんでした。このことは私の中で、とてもショックでしたね。当時の自分は日本語と英語を話すことができたので、「翻訳くらいできる」と軽く考えていました。しかし2つの言語ができるからといって、「翻訳の仕事はできない」ということを痛感しましたね。

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