メダリストの昇格人事は“八百長”なのか? いや、そうではない考え方吉田典史の時事日想(3/3 ページ)

» 2010年03月05日 08時00分 公開
[吉田典史,Business Media 誠]
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 インフラは、相手との心の問題である。相手がその社員の態度や仕事への姿勢などに疑問を感じれば、それでもう無理なのである。もちろん、逆のこともいえる。あなたが相手に嫌なものを感じていれば、そこから深い関係にはならないに違いない。これくらい微妙な問題であるがゆえに、インフラを作るのは難しいのだ。

 五輪でメダルを取るような社員は、その偉業自体がインフラをつくるうえで有利に働く。多くの部下は「あの人の言うことだから、正しいに違いない」と思うだろう。少なくとも、ほかの頼りない先輩よりは信用されるはず。上司も、その社員の後ろ盾(=経営陣)の存在を気にしつつ、一定の配慮をするに違いない。こう考えると「メダルを取った瞬間にインフラをつくった」と言えるのではないだろうか。しかし、ここで疑問を感じる人もいるだろう。かつてのひねくれた私ならば、こう思う。

 「若くしてインフラをつくる。業績はともかく、行動評価で高い成績を残すことができる人材ならば、なぜ役員などになれないのか。五輪でメダルを取った社員のその後を見ると、部長や支店長などになる人はいても、役員になる人は少ないではないか」――。

 この指摘は、私が把握している限りでは誤りではない。ただ、このあたりに日本企業のしたたかさと、経営陣の意識の高さを感じる。つまり役員クラスにするのには、一定の実績(業績)を残すことも必要であり、決して行動評価が高いだけでは不十分なのである。これは、フェアな人事と言える。あるところまでは、五輪選手という“実績”を利用する。その効き目がなくなると、そこで昇格はさせないようにする。こうした人事はしたたかと、とらえることもできる。

 しかし、私はこのような選手たちを「かわいそう」とか、「会社に利用されている」とは思わない。冷徹な資本の論理という観点から考えると、こういった人事はごく当然のことであるからだ。選手の側もそれくらいのことは承知のうえで、会社に籍を置いているのだろう。そう考えると、“八百長”といった表現はやはり誤りである。むしろ、極めて合理的な人事と言える。

 長島選手と加藤選手の昇格人事は八百長ではない――そう私は思うのだが、いかがだろうか。

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