『愛があれば大丈夫』はクラシック音楽だった――広瀬香美さん(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(4/5 ページ)

» 2009年12月26日 10時53分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

デビュー、そしてミリオンヒット

ファーストシングル『愛があれば大丈夫』

 ところがある日、状況は一変する。「ビクターから『曲を採用するので歌も歌いませんか?』という提案があったのです。しかも、『アルバムとして出しませんか?』ということになりまして」

 広瀬香美さんは、1992年7月、アルバム「Bingo!」で、日本の音楽シーンにデビューした。同年12月、ファーストシングル「愛があれば大丈夫」をリリース。これは上述のように、辛かった中学時代に井尻の交差点で書いた思い出深い曲である。

 そして、セカンドシングル「二人のBirthday」(93年5月)に続いて出した「ロマンスの神様」(アルペンCMソング、93年12月)が実に170万枚を超える大ヒットを記録する。

 「そのときロサンゼルスに住んでいたんですが、『ロマンスの神様』がオリコンのヒットチャートで1位になったというファックスがある朝、来たんですね。でも、『まさか!』と取り合わずに日々過ごしていたら、その後も続々と『オリコン1位』のファックスが入ってきたんですよ」

 それだけの大ヒットを記録すれば当然のことながら、日本で歌うことを期待される。「日本でプロモーションをやってくれないかって言われたんですが、(自分には自分の確固とした目標があるので)極力アメリカに残って活動を続けました」。

 広瀬さんのそうした思いとは別に、彼女の出す曲は、その後もヒットし続ける。「幸せをつかみたい」(94年12月)、「ゲレンデがとけるほど恋したい」(95年12月)、「promise」(97年11月)などなど……。

 「ヒットしてから改めてボイトレをやったりして、“歌手”としてやっていきましたが、本当にこれで良いのかと自分自身、問い直してみたんです。そして、デビュー10年目に初めて全国ツアーをやり、それでいったん終わりにしました」(筆者註:2001年12月〜2002年2月、「Alpen Presents 広瀬香美 Winter Collection2001-2002」、全国8会場8公演)

作曲家として、そして教育者として:

 以降、広瀬さんは、それまで同様、ロサンゼルスを拠点にしつつ、作曲活動に力を入れてゆく。曲を提供したアーティストの数は多い。SILVA(02年)、PaniCrew(02年)、島谷ひとみ(02、03年)、未来-MIKU-(02、03年)、福田沙紀(05年)、安倍なつみ(06年)、タイナカサチ(08年)、上戸彩(09年)、はるな愛(09年)、misono(09年)などなど……。

 また、テレビドラマやミュージカルの音楽監督、映画の音楽プロデュースなども手がけた。2004年11月、新曲「日付変更線」を出したのを機に、3年ぶりに歌手活動を再開。そして2007年からは連年、全国ツアーを実施するなど、最近は“歌手”としての活動も活発になってきている。

 

 広瀬さんを語る上で、もう1つ欠かすことができないのは、“教育者”としての側面だろう。1999年10月、彼女はヴォーカルスクール「Do Dream」を自ら立ち上げ、今も校長を務めている。

 「音楽の使い方を知っていると、人生が豊かになります。ですから、多くの人にそれを伝えるために音楽教育も始めたんです」。暗い現代にあって、音楽を通じて、人に微笑みをあげたいと願う広瀬さんらしい取り組みである。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.