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» 2009年12月22日 08時00分 UPDATE

元朝日新聞の本多勝一が語る、2つの戦争と記者の覚悟(前編) (1/3)

かつて朝日の“スター記者”とも呼ばれた本多勝一氏。『カナダ=エスキモー』や『戦場の村』など数々のルポルタージュを報じてきた彼は、いまの新聞記者をどのように見ているのだろうか。

[土肥義則,Business Media 誠]

 「朝日新聞の本多勝一」と聞いて、知っているという人はどのくらいいるのだろうか。かつての新聞社……特に朝日新聞の就職試験で、多くの学生は志望動機をこう語った。「本多勝一記者に憧れて、自分も記者になろうと思いました」と。

 『カナダ=エスキモー』『戦場の村』『アメリカ合州国』など、数々のルポルタージュを発表――。いわゆる朝日の“スター記者”として活躍してきた彼は、いまの新聞記者をどのように見ているのだろうか。新聞社が置かれている現状などについて、前・後編に分けてお送りする。

※本記事は日本ジャーナリスト会議主催の集会(12月8日)にて、本多氏が語ったことをまとめたものです。

朝日新聞の記者になろうと思った理由

yd_honda.jpg 元朝日新聞の記者・本多勝一氏

――なぜ新聞記者になろうと思ったのですか?

 もともと新聞記者になるつもりはなかった。私は京都大学の遺伝学教室に在籍していて、できれば就職せずに大学に残りたかった。当時の夢は、研究者として海外の舞台に立つことだった。

 しかし私はひとり息子で、妹は重度の身体障害者。また家が薬局をしていたので、親父の命令で「店を継げ」と言われていた。なので、私は薬剤師の資格を持っている。しかしどうしても家の薬局を継ぎたくなかったので、こっそり朝日新聞だけ就職試験を受けたのだ。そして朝日新聞に就職できなかったら、「家の薬屋を継ごう」と考えていた。

 なぜ朝日新聞を受けたかというと、学生のころヒマラヤ山脈に行ったとき、朝日新聞の記者と同行することがあったから。その人を見ていて「新聞記者って面白そうだなあ」と感じ、それがきっかけで朝日新聞の就職試験を受けたのだ。

 そして入社後、北海道支局に赴任。そこでいわゆる“サツ回り”を2年以上して、ウンザリしていた。やがて東京本社に戻ったのだが、またそこでサツ回り。そのとき「新聞記者を辞めようかな」と思っていたのだが、東京本社赴任後半年くらい経ったとき「史上最大の山の遭難事故」が起きた。1963年1月、舞台は北アルプスのと薬師岳というところ。登山をしていた人が全滅したかどうか分からない状況が続いていたとき、私は「13人が死亡」と報じた。いわゆる“スクープ合戦”に勝ったので、当時の社会部長がごほうびとして「何でも好きなことをいい」と言ってくれた。

 そしていまは「イニュイ民族」と呼ばれているが、私は『カナダ=エスキモー』を取材した。このルポルタージュが好評だったので、その後『ニューギニア高地人』などを取材していった。やがてベトナム戦争が始まり、戦争は重大な局面に入りつつあった。そのころの私は新聞記者になって8年が経過していた。新聞記者になるきっかけはいい加減だったが、ジャーナリストとしての志のようなものが目覚めつつあり、「ベトナム戦争を取材したい」という思いが強くなっていた。

 しかし当時の編集局長に「もう1つだけ、別のルポルタージュをしてくれ」と頼まれていた。1965年にアラビア遊牧民を報じ、その取材が終わったので、私は「もういいでしょう」と編集局長に訴えた。そして1966年の末に、ベトナムの土地に足を踏み入れたのだ。

 そのときの私は34歳――。会社の上層部は、私にベトナム戦争の取材を望んでいたわけではなかったのだ。

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