『黄昏流星群』はサッチーの写真集を参考に――『島耕作』の弘兼憲史氏が語る劇的3時間SHOW(2/3 ページ)

» 2009年10月20日 08時00分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

弘兼 手塚治虫さんは、もともとアニメーションをやりたかったそうです。ところが、紙の上で表現する漫画だと画像が動きません。そこで、顔のアップや目のアップ、カメラアングルの変更といった映画的な手法をたくさん取り入れられました。

 そして、手塚治虫さんに影響されて全国各地から漫画家が集まりました。藤子不二雄さんというコンビ、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、寺田ヒロオさんという方々が、手塚さんを慕って池袋のトキワ荘に集まりました。梁山泊のように人がたまっていたので、漫画編集者も行きやすくなって、トキワ荘を繰り広げてさまざまなドラマがありました。

トキワ荘があった場所は現在、出版社になっている

 トキワ荘で集まっていた漫画家たちが20歳前後のころ、団塊の世代は小学校低学年でした。そのころはまったく娯楽がありませんでした。今のようにゲームもない、映画もない、テレビさえもない。そうすると娯楽は漫画雑誌だけだったんですね。しかし、当時の月刊誌の価格は結構高くて、今のお金で換算すると恐らく1冊数千円の価値があったと思います。そのため、お金持ちのA君が買ってもらって、読んだらB君に貸してやる、その次はC君に貸してやるという形で回し読みをして、さまざまな月刊誌をボロボロになるくらいまで読んでいました。

 出版社は月刊誌だと価格が高くなってしまうので、週刊誌にすることで1冊あたりの価格を安くしようとしました。そこで、私が12歳のころ、1959年に創刊されたのが『週刊少年マガジン』と『週刊少年サンデー』です。週刊誌だと安いので買いやすいとはいえ、結局毎月4冊買わされることになるのですが、そうやってどんどん漫画が広がっていきました

 僕らの世代の前までの大学生で漫画を読む人は珍しかったのですが、戦後生まれの“現代っ子”と呼ばれた僕たちは大学生になっても漫画を読み続けました。「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」という言葉ができたくらいです。僕たちが大学生のころ、一番人気があった漫画は『あしたのジョー』と『巨人の星』でした。

 そして、出版社がマーケティングリサーチをしたところ「この世代は大人になっても漫画を読むだろう」ということで、1968年に『ビッグコミック』という青年誌が創刊されました。団塊の世代の成長に合わせて、大人が読むに足るコンテンツのある漫画雑誌を作られていったわけです。こうして漫画読者の平均年齢もどんどん上がっていきました。

 (団塊の世代が定年を迎えて)これからは60歳以上の人も漫画を読むということになると、シルバーコミックという新しい分野が登場するかもしれません。団塊の世代は子どものころから漫画を読んできた歴史があるので漫画に対する抵抗感はまったくないのですが、字は読みやすいように小説よりも大きくなるでしょう。

 1つ問題があるのは、シルバーコミックを若い漫画家が描けるだろうかということです。例えば20歳の漫画家が、60歳の人は描けないですよね。心情が分からないわけです。私は今62歳で幸い大人向けの漫画が描けるのですが、自分が70歳になって描けるかどうかは自信がありません。

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