ヒトを責める時の“出発点”はどっち? “あるべき姿”それとも“自分”ちきりんの“社会派”で行こう!(2/2 ページ)

» 2009年10月19日 08時00分 公開
[ちきりん,Chikirinの日記]
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もし自分が●●だったなら……

 ちきりん個人としては、何かを責める時に「あるべき姿」ではなく、「自分」と比べることが多いです。そのため、多忙な中で凡ミスをした人の報道などを見ると、責める前に「ああ可哀想だなあ。つらいだろうな、怒られるだろうな。首になるかも?」と思ってしまいます。

 このアプローチのまずいところは、自分があまりにも“適当な性格”だと、「ほとんど誰も責められなくなる」ということでしょうか。

 例えば狭い雑居ビルの非常階段に、ゴミ箱や段ボールを“ちょっとの間だけ”置いておくような行為。もちろんテナント側も、まさか火事が起こるとか思わない。それらの荷物のために人が逃げられなくて死んでもいいなんて思っていない。

 だけど、自分がそのビルの所有者(管理者)だったら、毎日しつこくテナントに指導をするだろうか? もし、テナントが言うことを聞かなければ毅然と「出て行ってくれ」という対応ができるかしら?……と考えると、はなはだ心許ない。

 でも実際に火事が起こり、その荷物のせいで人の命が奪われる事件もあります。そういう場合、「あるべき姿」と比べると「非常階段にモノを置くなんてとんでもない行為だ。許し難い」となります。一方でちきりんは、こういうのを簡単に責めることができません。「自分がオーナーだったら、本当にちゃんと指導してただろうか……」と考え込んでしまいます。

 特に責められない感じがするのは、「自分が生まれた環境から抜け出て成功するために、無理をして無茶をしてのしあがってこようとした途上で大きな失敗をする」人たちです。そういう人の多くは極悪非道な人という感じはしません。不注意だったり軽率だったりするし、何よりも無知な場合が多い。“無知で不注意”なことと“極悪非道”なことは違います。けれど実際には、“無知で不注意”なことから重大な災害が起こったりします。被害者から見れば、許し難い事件となるでしょう。

 ちきりんが“極悪非道”と感じるのは、自分の享楽、快楽のために弱者の命を奪うような犯罪です。「ありえない」と思うし、「厳罰に!」と思います。遊ぶお金欲しさにお年寄りを突き倒して財布を奪うとか、性的な快楽のために誰かの人生を踏みにじるとか、そういう犯罪に関しては遠慮なく責められる一方で、「自分も環境や状況によってはそうしていたかも」と思うことは批判しにくいです。

 というわけで、何かを批判している人の話を聞くと、その人が「あるべき姿」と「自分」のどちらを起点に責めているか、見えることがあり面白いです。時には「そこに起点が!?」と驚くことも。皆さんも何かを責める時、自分の起点を意識してみると面白いかもしれません。

 そんじゃーね。

著者プロフィール:ちきりん

関西出身。バブル最盛期に金融機関で働く。その後、米国の大学院への留学を経て現在は外資系企業に勤務。崩壊前のソビエト連邦などを含め、これまでに約50カ国を旅している。2005年春から“おちゃらけ社会派”と称してブログを開始。

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