コラム
» 2009年10月19日 08時00分 UPDATE

ちきりんの“社会派”で行こう!:ヒトを責める時の“出発点”はどっち? “あるべき姿”それとも“自分” (1/2)

人を責める時には「あるべき姿」と「自分」という2つの起点がある、と主張するちきりんさん。私たちの身の回りでなされる批判は、どちらが起点になっている批判なのでしょうか。

[ちきりん,Chikirinの日記]

「ちきりんの“社会派”で行こう!」とは?

はてなダイアリーの片隅でさまざまな話題をちょっと違った視点から扱う匿名ブロガー“ちきりん”さん。政治や経済から、社会、芸能まで鋭い分析眼で読み解く“ちきりんワールド”をご堪能ください。

※本記事は、「Chikirinの日記」において、2007年6月30日に掲載されたエントリーを再構成したコラムです。


 何かの行為や人を責める時、あなたは何を“起点”にして責めていますか?

 実は人が何かを批判する時には、2つの異なる起点がありえます。起点となりうるのは、

(1)あるべき姿

(2)自分

 の2つ。私たちは何かを責めるとき、無意識にどちらかを起点に選んでいます。

 「それは、あってはならないことだ」というのは「(1)あるべき姿」と比較した批判で、「オレはそんなことは絶対しない」というのは「(2)自分」と比較した批判です。「自分=あるべき姿」という完璧な人なら、2つは常に同じかもしれません。

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 この起点が非常に明確なのがマスコミです。マスコミが他者を批判する時は、その基準は常に「あるべき姿」です。彼らは自分たちの会社に女性重役がほとんどいなくても、「企業は女性を公平に処遇すべきである」と書くことに躊躇(ちゅうちょ)しません。「学歴偏重はよくない」とか「採用の早期化が問題だ」という報道も同様です。

 また、「正規社員と非正規雇用の人の待遇が違いすぎるのは問題だ」と報道する新聞社やテレビ局にも、非正規雇用や下請けで、正社員とかけ離れた処遇をされている人はたくさんいるでしょう。しかし、だからといって彼らがそれを「仕方がない時もある」と報道することはありません。マスコミの批判精神の起点は常に「あるべき姿」であって、「自分」ではないのです。

 一方、「あるべき姿」を起点に責められやすい職業もあります。政治家や医者です。政治家が急に記者に囲まれて矢継ぎ早に質問され、うろ覚えのことを答えてしまい、それが間違っていたという報道がしばしばありますが、それは誰にでも起こりうることなのではないでしょうか? 「自分」を起点に考えると責めたりできない。

 でも、相手が政治家となると、世の中の多くの人はそれを許しません。「いい加減だ」「意見がぶれる」と責めます。この場合の起点は「あるべき姿」です。「自分」を起点にすると責められない場合もあるはずなのに、相手が政治家だと遠慮がありません。

 医者も同じです。どんな仕事でも、40年間働いてきてミスをしたことがない、という人はいませんよね。毎日何らかのミスをしている人もいるのでは? でも、そういう人でさえも、医者のミスに対しては「あるべき姿」と比べて「あり得ない、ひどい」と責めたりします。

 もちろん医療過誤はとんでもないことですが、ミスが発覚した時に「あるべき姿と比較して責める」という姿勢のほかに、「自分と比較して、大きなプレッシャーがかかる仕事では常に一定のミスが起こりうることを理解し、その上で、今後どうすればいいかを考える」という思考も重要だと思います。

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