「でも慶應には落ちてしまって、それで成城大学文芸学部芸術学科に入学したんです。同級生には女優の鈴木保奈美さんがいました。会ったことはありませんが(笑)。当時の成城では、ある芸能人のご子息のバンドが有名で、自宅には7〜8台の外車が並んでいました。しかも、ばあやが付き添っているんですよ。それを見たとき『東京の人ってすげー』って感動しましたよ(笑)」
高野さんご自身は大学時代をどのように過ごしたのだろうか?
「私は、楽しいことがあるとそれに熱中してしまうタイプなんです。大学時代、女の子の家に転がり込んで同棲を始め、授業には全然出席しませんでした。結局、2年間の取得単位数ゼロのまま退学しちゃったんですよ。私の行方が分からないので心配した静岡の両親が、私を探しにきたりして……。音楽活動の方は、軽音楽部に所属し、大学を辞めていたのに、なぜか私が部長を務めていたんですよ」
ここで出会ったのが大学の後輩・及川さんだった。
「20歳のときから同じバンドで活動しました。彼はヴォーカルで私はアレンジなどを担当し、彼がデビューした際には、29歳の私もアレンジャーとしてプロデビューを果たしました」
素顔の及川さんはどんな人だったのだろうか?
「一言で言って仕事人間ですね。マジメ。アイディア豊富で情熱的。レコーディングでニューヨークに行ったとき、午前2〜3時ころまで仕事をして、その後、お酒を飲んでも、次の日にはきちんと仕事に行くんですから、すごい体力の持ち主でもあります。
彼と私は、仕事上は対等な立場で議論してきました。でもプライベートになると、どうしても大学の先輩・後輩の関係に戻ってしまうんでしょうか、大学時代の話し方で話してくることが多いですね」
大学を辞めてバンド活動を続けていた高野さんは、当然のことながら経済的には厳しいので、同棲中の彼女に食べさせてもらっていたという。
「でも、27歳のときに通信カラオケの時代が到来したんです。1曲数十万円という単価で数万曲をデータ化する仕事が来ましてね」
それを全部やったら、売上数十億円! 本当にそれだけ稼いだのだろうか?
「いや、とてもそれだけの数はこなせなかったですよ(苦笑)。まず、その前提として、そういう作業が可能な家に住む必要がありました。でも、当時の私の年収はたった7万円でしたから、とても引っ越せない。
それで彼女と結婚しまして(笑)。彼女の父親に保証人になってもらって家賃20万円の家に越したんです」
結果として、その仕事はその後、順調に?
「精神的に1日当たり6〜7時間続けるのがやっという感じで、1曲当たり1週間近くかかりました。それに、自分ひとりでは無理なので、楽器ごとに担当を決めてチームで対応しました。一挙に年収2000万円の生活になり、秋葉原に100万円持ってPCを買いに行ったりしました。でも結局、2年で精神的に限界を迎えました」
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