ある大物アーチストと歩んだ日々……彼から学んだことは? 制作プロデューサー・村田努さんあなたの隣のプロフェッショナル(2/5 ページ)

» 2009年09月18日 10時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]
ローディのころの村田さん

 「バイトもずいぶんやりましたよ。海水浴場の掃除、貸しボート屋、海の家、女装でイベント出演、渋谷・道玄坂のラブホテルでのベッドメイキング、モスバーガーの閉店後メンテナンス、米屋の配達、家庭教師、飲食店の開店工事……」

 多様なアルバイトを積み重ねながら続けたサークルでのバンド活動は、どのくらいの成果を挙げたのだろうか?

 「かなりいい線行って、メジャーデビューするかどうか、というところまで行ったんですが、もう一歩及ばず、それで仕方なく、スーツを着て就職活動もしました。雑誌社、テレビ局、ラジオ局など、マスコミ各社を受けたんですが、ちゃんとした準備もしていなかったので、結局、全滅で……。臨床心理の大学院に行こうかとも思ったんですが、サンリース(現サンフォニックス)という会社でローディの仕事に就くことにしたんです」

 えっ、そのローディって何?

 「各アーチストのコンサートツアーに楽器を出したり、会場でのセッティングをする仕事で、元々その会社は、テレビ局にピアノを貸すことから始まったようです。会社としては70〜80人ほどの規模でした」

CHAGE and ASKAとの運命の出逢い

ローディとして4〜5年働き、「クリエイティブな仕事がしたい」と感じていた村田さん

 「ローディとして4〜5年、働きました。ツアースタッフとして巡業したり、2トントラックを運転してイベント会場まで楽器を運んだりしていました。はっきり言って肉体労働ですよね。そして、遂にというか、ギックリ腰をやっちゃったんです。そういうこともあって、この仕事を一生やるのはしんどいなあ……と」

 制作側に回ってクリエイティブな仕事をしたいと思うようになっていた村田さんにやがて声がかかる。

 「CHAGE and ASKAのツアークルーに参加しないかって誘われたんですよ。僕がちょうどベンチャーズのジャパンツアーに参加していた時でした」

 ツアークルーというのは、ひとつの会社で請け負うというよりも、各分野の専門スタッフが集まって、プロジェクトチームを組んでいるようだ。

 「ですから私も、最初はフリーのローディとして入ったんですが、バックバンドのマネジャーもやれということになって……。それで、CHAGE and ASKAの所属プロダクションとの付き合いも始まるようになりました」

 ツアーのある時期とない時期、それぞれどんな生活をしていたのだろうか?

 「ツアーのない時は、レコーディングスタジオのスタッフとして働きました。業界では、Teaboyと呼ばれる立場です。ツアーは、毎年大きいのが1本あって、それは半年間ほど続き、私も当然、それに参加していました」

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