茅ヶ崎で名を轟かせた“ワル”だった……日本にマラサダを持ち込んだ男(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(2/6 ページ)

» 2009年07月18日 07時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

モトクロスのレーサーに転身したが、事故で重傷

17歳でトロフィーを手にした

 「バイク屋で暴走族の元特攻隊長だった人と出会いまして、その人に連れられてサーキットを走ったんですね。しかし散々な結果で、それ以来、私は体作りをしないとダメだと思い、スポーツジムに通い……禁煙もしました(苦笑)」

 その甲斐あってか、16歳でモトクロスレースに出場した神谷さんは、17歳で数々のトロフィーを獲得するようになった。

 「レースに出場するのにどうしてもお金がかかるので、ガソリンスタンドでバイトしたり、バイク屋で丁稚(でっち)をしたりしてましたね。そして軽トラにバイクを載っけて、各地のレースを転戦しました。オフロードの雑誌にもずいぶん取り上げられましたね」

 しかしチーム・ヤマハ入りを目指して頑張っていた18歳のある日、神谷さんはレース中にクラッシュした。

 「脊髄の圧迫骨折と、頚椎損傷という診断でした。下半身不随とかになるんじゃないかとマジで心配しましたね。その時に医師から、丸坊主にして頭にボルトを入れると言われた。それを聞いて『冗談じゃねえ』って感じで、自慢のリーゼントを守りたい一心で病院を脱走したんですよ」と笑う。

モトクロスバイクに乗る神谷さん

医療機器メーカーでトップセールスを記録

 すでにその春、高校を卒業し、事故の傷も癒(い)えてきた1993年夏、彼はハンバーグなどで有名な某飲食チェーンに就職したが、自分の実力に見合った給料ではないと2年後退職。そして医療機器メーカー大手のF社に入り、営業の第一線に立った。

 「私が担当したエリアは、高齢医師の小さな医院ばかりの一帯でした。設備投資するような資金的な余裕もないようなところなわけですよ。そういうところに、私はパンチパーマに白いダブダブのスーツという、ヒールキャラで飛び込み営業をかけたんです」と大爆笑する。「もちろん、仕事は誠実にしましたよ」と慌てて付け加える。

 そうした、病院関係者をビビらせかねない営業は果たしてうまくいったのだろうか?

 「うまくいきましたね。営業マン700人の中で、営業成績は毎年ベスト4に入りました。年収は700万円くらいでした」

 神谷さんのモチベーションの源泉は何だったのだろうか?

 「私は、常に『カッコイイ』って思われたいんです。そして、そのための努力は決して人には見せないのが美学です。例えば医師の関心事をリサーチしたり、会ってくれない医師に対しては、その医師の頭が上がらないような相手(婦長や奥様など)に接近したり、患者さんと仲良くなったりしました。医師を接待すれば、もっと簡単に成果が挙がるかもしれません。しかし誰がやったってうまくような方法に、私は興味がありませんでした」

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