廃線の危機から脱出できるか? 第三セクター・北条鉄道の挑戦近距離交通特集(2/6 ページ)

» 2009年02月04日 07時00分 公開
[杉山淳一,Business Media 誠]

命運が別れた三木鉄道と北条鉄道

 2008年4月1日、第三セクターの三木鉄道(兵庫県)が廃止された。三木鉄道は旧国鉄三木線を第三セクターに転換した路線である。さらにさかのぼると、三木線が国鉄に編入される前は播州鉄道が運営していた。播州鉄道は加古川線(加古川−谷川)を軸とし、三木線(厄神−三木)の他に、鍛冶屋線(野村−鍛冶屋)、高砂線(加古川 - 高砂)、北条線(粟生−北条町)を運行していた。

旧播州鉄道路線図

 これらの路線は1943年に国有化されたが、加古川線以外の支線はすべて国鉄の特定地方交通線(赤字線)として廃止対象となった。加古川線はJR線として存続しているが、鍛冶屋線、高砂線は廃止。三木線と北条線は第三セクターとして存続した。この2つの第三セクターは兄弟のようなものだったが、三木鉄道は廃止され、北条鉄道は残ることとなった。

 三木鉄道も存続の努力はしていた。三木市を中心として第三セクターに転換した後は、4つの駅を新設して乗客増を目指した。前三木市長はDMV※を採用して、三木鉄道三木駅とは離れた神戸電鉄三木駅を結ぶ構想を持っていたという。しかしその後の市長選挙で三木市の財政再建を公約に掲げた現市長が当選し、その公約通りに三木鉄道は廃止された。

※DMV…Dual Mode Vehicle。JR北海道が開発を進めている鉄道線路と道路の両方を走行可能な車両。

 一方、北条鉄道の出資者である兵庫県加西市も、民間企業出身の改革派の現市長が当選した。現市長は「慣例というだけで北条鉄道の社長に就任したくない」と表明した。そのため、実際には前市長の社長としての任期が継続していたものの、「4カ月間も社長不在」と報じられた。これが市民に「北条鉄道は見捨てられた」と思わせた。しかし、結局は加西市長が北条鉄道の社長に就任し、意外にも「北条鉄道の維持と再生」を宣言して現在に至っている。三木鉄道の廃止直前の2008年3月には、全国から鉄道ファンが集まり、“ついでに”北条鉄道にも立ち寄ったため、皮肉なことに2007年度の北条鉄道の収益は前年度を大幅に上回ったという。しかし、その北条鉄道にも最大の危機が訪れていた。第三セクターに転換して以降、経営赤字を補てんしていた経営安定化基金が底を突いたのである。

 北条鉄道の前身、国鉄北条線は1980年の国鉄再建法により、第一次廃止対象路線となった。その条件は「延長30キロメートル以下の盲腸線※で、旅客輸送密度が1日1キロメートルあたり2000人未満の路線」であった。第三セクター鉄道として再出発する場合、1キロメートルあたり3000万円の転換交付金が国から支給される。北条鉄道の場合は約4億円だった。しかし開業以降、年3000万円の赤字を計上していることから、開業後13年目には転換交付金が底を突き、それ以降の赤字は加西市が負担し続けている。正確には、北条鉄道が加西市に納付した固定資産税を新たな補填基金にあてていた。だがそれも底を突いたため、いよいよ加西市が税金によって補てんしなくてはならない事態となった。

※盲腸線…起点・終点のどちらかがほかの鉄道路線と接続しておらず、盲腸のように見える路線のこと。
三木鉄道の車両は1両が北条鉄道に譲渡された(写真提供:加西市)

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