どうやって“南極料理人”になったのか――南極越冬隊調理担当・篠原洋一さん(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(3/6 ページ)

» 2009年01月26日 00時15分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

第33次南極越冬隊員に選抜され、念願かなって南極へ

 南極越冬隊の調理担当は2名で、海上保安庁と東條會舘から各1名が選出されるのが通例となっていた。したがって志願しても、その2人の枠に入るのは、そう容易なことではなかった。篠原さんは辛抱強く「その時」が訪れるのを待った。そして……

 「1991年、29歳の時に、ついに内定をいただき、訓練に入りました」。立場としては臨時公務員であり、隊員となるには前職を退職しなければならない。

 「冬の乗鞍岳で1週間に及ぶ訓練に従事しましたし、夏山での訓練もありました。また、座学あり、救命救急実習ありで、1年3カ月に及ぶ酷寒の地での生活に備え、研究チーム、設営チームの全員が様々な訓練を受けました。私の場合は当然、調理訓練もありました。パンを作ったり、ロシア料理を作ったり。これは大変というより、むしろ楽しかったですね」

 1991年11月14日。篠原さんを乗せた南極観測船「しらせ」(排水量2万8000トン、砕氷船としては世界最大級)は、東京の晴海埠頭から出航した。

 「やっと出た!って、しみじみ思いましたねぇー」

日本の南極観測の最大拠点、昭和基地(左)。飲み会のようす。写真中央が篠原さん(右)

海に近く、比較的温暖(といっても平均気温−10.5度)な昭和基地では、周辺にウェッデルアザラシやアデリーペンギンなど多様な生き物が生息している(右写真ははく製)

オーロラを眺めながら露天風呂

 念願がかない、篠原さんは南極越冬中に何度かオーロラを見ることができた(南極生活についての詳細は、前編を参照のこと)。1年3カ月にわたる南極生活が終わり、篠原さんが選んだ“その次の仕事”とは何だったのだろうか?

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