恋は落ちるのではなく“昇るもの”だと、恋の渦中の人は言う。ぐんぐんと上昇気流の放物飛行を続けると、雲間からひらりと“恋の試験紙”が飛んでくる。試験紙には“降りる/降りない”ラジオボタンの選択肢がある。地表を見下ろすとめまいも感じる。だが恋するパッションで迷わず“降りない”にチェックを入れ、放物飛行を続ける。それが恋だ。
もんちほしさんもそうした。迷わずチェックした試験紙は、ひらりひらりと地上に落ちた。落ちる先の地点には自分そっくりの“分身”がいた。試験紙は分身の手に落ち、分身はそれを広げ、空を飛ぶ“私”に見せた。遠くておぼろげだが、そこには文字が消え、“私”が描いた絵があった。
→イラストレーター・もんちほしの誕生(後編・本記事)
パッションのおもむくまま上京し、昇りつめた恋は、次第に苦いものになっていた。
なぜならその男性の目に“イラストレーターのもんちほし”を見たから。彼が恋していたのは素顔の彼女ではなく“もんちほし”だったのだ。それでも彼のことが好きだった。好きになりすぎてしまっていたから、嫌われる怖さから、“自分”を出せなくなった。
彼の前で“出せない自分”が、絵に出てきた。
代表作の1つ『恋淵(こいふち)』はそんな時期に描かれた。よどむ恋がテーマだ。女体に書かれる“恋ぞつもりて淵となりぬる”とは、恋の初めは一滴の水、それが雨水や小川を呑み込んでやがて川になるのを意味する。
左右には桔梗の花や葉、茎が見える。そこには小さく蟻が描かれる。桔梗は女を、蟻は男を象徴する。桔梗に含まれるアントシアンは、蟻の口内の蟻酸(ぎさん)と反応すると赤く染まる。だが桔梗は青いまま。噛んでほしいのに噛んでもらえないもどかしさ。ゆえに恋の流れは“淵”となり、よどむ。
もんちほしさんは、個展よりもゲイサイやデザインフェスタといったイベントを好む。それは個展に比べ、イベントには未知な出会いがあるからだ。あるイベントで、年配の紳士が彼女のブースに歩み寄ってきた。面識はなかった。イラストを見るなりこう言った。
「怖いねえ。こういうものを描くには情念があるだろう」
苦い恋は彼女のことばの密度を上げ、自分の情念に関心を向けさせた。色(女の美)に宿る奥を描くようになり、「折ってほしい」「染めなおしてほしい」という心の苦しみを、白菊、桔梗、椿など植物で表す。蛾や蟻、トカゲ(まだバッタはない)は、“女を変える男”の象徴である。美人画は心象画へ、そして情念画へ高まった。その独特な世界――オリジナリティが築かれた。
古来より紅葉の名所と知られる竜田川をモチーフにした作品が『龍田川(たつたがわ)』。背を向ける女は目をつむり、川とおぼしき帯をまとう。
秋、もみじの落葉で真っ赤に染まる竜田川。川の流れは恋の象徴。流れ(恋)はもみじで覆われて水面下に隠れ、赤い帯になり、やがて赤い糸になる。糸と蛇(男)を断ち切れば想い出から逃れることができる。恋との訣別がテーマになった。
インタビューに先立ち、彼女の作品展示をゲイサイミュージアムに観に行った。そこで、今想えば浅はかな質問をした。
「あなたが描く女は、あなた自身ですか?」
もんちほしさんはちょっとうつむいて答えた。「私は2〜3割くらいです」
「あとは?」
「植物とか虫とか、いろいろです」
質問はあてずっぽうだっが的を射ていた。恋とは相手のことを必死で考えるものだから(イラストにですよ)。
もんちほしさんは“恋する自分を眺める、もう1人の自分”を手に入れた。アーティストの才能とは、制御できないパッションを持つこと。だが商品としては、制御しないとマーケットに認められない。どこかで冷徹に自分の“パッション”を形にしないと商品にならない。それが個性を商品化することだ。植物や虫に語らせ、悲恋の糸を和はさみで切り、個性を手にした。
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