新たな店舗と新たなお客様を想う――吉野家(前編)小西賢明の「お客様を想え。」(3/3 ページ)

» 2008年04月14日 08時36分 公開
[小西賢明,GLOBIS.JP]
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第2の、最大の危機

 この最大の危機を乗り越え、吉野家は20年にわたって快進撃を続ける。2001年には牛丼は280円に。当時、「ユニクロ」をブームに導いたファーストリテイリングの社長・柳井正氏と、吉野家社長・安部氏を並べ特集するビジネス誌のなんと多かったことか。吉野家は、デフレ時代の雄と呼ばれるようになる。

 しかし。不意の事態が起こる。皆の記憶に新しい、突然の事件が。2003年末、米国産牛肉BSE問題である。「私が生きている間は、もうないだろうという最大級のアクシデント」と安部氏が語ったこの事件。「自社が育成した米国産牛肉の旨さあってこその、吉野家の価値」にこだわった結果、2004年「牛丼のない牛丼店、吉野家」が誕生する。

 この時期が、どれほどの危機的な時期として吉野家内に認識されたのか。筆者はそれを知らない。しかし、一消費者としてその努力には、頭が下がる。

 さまざまな商品開発の試行錯誤。何を新しい吉野家の象徴にするかというチャレンジの連続。その過程におけるオペレーションの見直し。例えば、複数商品を扱うが故に「伝票」が必要となったが、それ自体も古くからの吉野家文化的には心理的抵抗が大きかったはずだ(「お客様のご注文を暗記してこそ吉野家」)。そして、上記の過程で連発する様々な予期せぬ事態。現場は混乱を重ねる(例えば、牛丼用オタマでは、オタマにのる汁量が微妙な差異により、豚丼を旨い味わいでよそえない、などなど)。

 さまざまな困難を前に。努力を積み重ね。真面目に実直に次々と立ちはだかる問題に取り組み続ける。吉野家のそんな姿には、敬服の念を禁じえない。しぶとく、がんばっている。その底力を感じたのが、この時期の吉野家だった。

 これを経て。2006年に牛丼輸入再開。ところが。成田の検疫所で、特定危険部位がついたままの牛肉が発見され、吉野家も輸入再開延期をすぐさま即断。

 極めて残念なこの事態に、安部社長が言った言葉は「アッタマにきた」。現場でこれを、この言葉のトーンで直接伝える。腹は立つが、気持ちで負けない。「危機にめげない経営、吉野家」。そんな言葉がビジネス誌を彩ったのが2006年初頭だった。

 そのうえで、その半年後、いよいよ吉野家の牛丼は世の中に戻ってくることとなる。皆が待ちに待った、牛丼再開である。

 BSE問題の会見で「2〜3年は商売をしなくても社員の給料は払える」と言った吉野家。倒産の危機を乗り越えた教訓からか、底の分厚い経営をしてきた。しかも社員が一丸となる文化がある。本気で困難にチャレンジする文化もある。確かに、牛肉輸入禁止は、「最大のアクシデント」だっただろうが、その底力で見事それを乗り越えた。

 が。気になる。そもそも、吉野家の危機とは何だったのだろう。それは、果たして本当に終わったのだろうか――。

小西賢明(Kenmei Konishi)

東京大学経済学部卒業。マッキンゼー・アンド・カンパニー、アクセンチュア戦略グループなどの戦略系コンサルティングファームにおいて、様々な業界企業に対しての多岐に渡る経営課題の解決に従事。2003年より独立。ワイズ・ストラテジック・パートナーズ代表となる。現在はマーケティング分野・新規事業分野を中心に、プロジェクト支援や企業アドバイザーなどのコンサルティング業務を展開。と同時に、ビジネスリーダー育成のための研修・講演も多く手がける。(主には、企業内大学における自社課題解決や、論理思考・経営戦略・マーケティング・ビジネスプラン・ビジネスプレゼンテーション等)。グロービスのパートナー・ファカルティでもある。


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