新たな店舗と新たなお客様を想う――吉野家(前編)小西賢明の「お客様を想え。」(1/3 ページ)

» 2008年04月14日 08時36分 公開
[小西賢明,GLOBIS.JP]

小西賢明の「お客様を想え。」とは?

グロービス・マネジメント・スクールで教鞭を執る、小西賢明氏による新連載。マーケティング分野・新規事業分野を中心にプロジェクト支援や企業アドバイザーなどを務めてきた知見を生かし、巷の気になる商品・サービスのマーケティング戦略について、独自の視点で分析する。

※本記事は、GLOBIS.JPにおいて、2007年10月17日に掲載されたものです。小西氏の最新の記事はGLOBIS.JPで読むことができます。


 この記事を書いている今日、ミシュランガイド東京が「星」を発表。3つ星8店。2つ星25店。1つ星あわせて計150の「星を持つ店」が発表された。ミシュランが一つの都市に与える星としては、歴代最高。東京は世界に冠たる「美食の都市」の一角であることが、ここに示された。

 とはいえ。3つ星8店といわれても、行ったことがある店がどれだけあるのか。カジュアルに使うには難しい店も多くあり、普通の人はそんなには触れたことがないはず。

 例えば、3つ星店のひとつ、濱田家。今回は150店中日本料理6割と、和食の店が多いことが特徴だが、その中のひとつが3つ星濱田家である。日本橋人形町に大正元年(1912年)創業。1人当たりの平均予算4万円。しかし伝統と格式を極めた独特の存在感を持ち、訪れる顧客にわずかな時間の中にもその価値を伝えきる。そんな店の1つが濱田家。

ところが。濱田家とよく似た? 名前で、濱田屋よりもさらに古い歴史を持ちつつ、全く異なる価値を極めた存在がある。1899年、やはり日本橋での創業。牛丼一筋108年。株式会社吉野家(以下吉野家)である。

 「日本のファストフードの至宝」というと、言い過ぎだろうか。しかしそう言ってなんらためらうところがないほどに、筆者はこの店を愛している。「早い」のみならず、「うまい」と「安い」をこれほどまでに高いレベルで共存させているその努力に敬服。一店舗のみの名店ならまだしも、大規模チェーンにおいても実現する組織力に敬服。マクドナルドが世界で稀有な存在であるように、吉野家もまた日本発の「宝」なのではないか。そう思っている。

学び多き、その深い歴史

 私と近い世代ならば、「牛丼一筋80年」というフレーズを懐かしく思うのではないだろうか(ちなみに、アニメ「キン肉マン」では「牛丼一筋300年〜♪」と歌われていた)。それから30年近くを経て、現在、創業108年。吉野家は、1世紀を越えるその年月のなかで、様々な出来事を経験してきた。

 そもそもは、大阪・吉野町(現在の大阪市福島区吉野)出身であった松田栄吉氏が、当時東京・日本橋にあった魚市場に定食屋を開いたのがその始まり。文明開化の象徴であった牛鍋を、庶民の味にアレンジしたのが牛丼である。魚市場で働く、味にうるさい・時間に追われている常連を相手に、午前中半日で1000 人を回す人気店として存在としたのが初期の吉野家だ。その後1926年の関東大震災後、魚市場とともに東京・築地に移転する。吉野家本店といえば築地というのは、ここに端を発する。

 大きな転機は1958年。父の後を継いで二代目社長となった松田瑞穂氏が、「吉野家の多店舗展開」を目指し株式会社化した事にある。「うまい、安い」の名店であった築地の吉野家は、先進のチェーン・マネジメントのあり方を学びながら「早い、うまい、安い」の全国チェーンとなっていく。67年にメニューを牛丼に絞込み、73年にフランチャイズ1号店を開店。今の吉野家店舗の原型をつくりつつ、かつ多店舗展開をグイグイと進めていく。77年には100店突破。78年には200店突破。それまでと全く異なる「企業」としての新しいステージを、猛烈なスピードで進んでいく。

 ところが。1970年代後半、積極的な拡大に店員の質や材料の調達が追いつかなくなり、徐々に商品が劣化していく。輸入制限外になるフリーズドライの牛肉と、輸送費削減のために開発したパウダー状のタレを使った牛丼に切り替えたことで、顧客満足と客足を落としていくのだ。そして80年。最大の危機が訪れる。徐々にキャッシュフローが気まずくなる中、値上げを断行。これが引き金になり、一気に客離れが起こる。結果、外食産業で初めて、会社更生法の適用を申請することになり、事実上、倒産した。

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