私がiPodを聴く気になれなかった理由郷好文の“うふふ”マーケティング

» 2008年03月13日 13時00分 公開
[郷好文,Business Media 誠]

著者プロフィール:郷 好文

 マーケティング・リサーチ、新規事業の企画・開発・運営、海外駐在を経て、1999年よりビジネスブレイン太田昭和のマネジメント・コンサルタントとして、事業戦略・マーケティング戦略、業務プロセス改革など多数のプロジェクトに参画。著書に「ナレッジ・ダイナミクス」(工業調査会)、「21世紀の医療経営」(薬事日報社)、「顧客視点の成長シナリオ」(ファーストプレス)など。現在、マーケティング・コンサルタントとしてコンサルティング本部に所属。中小企業診断士。ブログ→「マーケティング・ブレイン」


 あるミッションを胸に、いや耳に秘めて銀座5丁目のビルに向かった。7階のオフィスには、オーディオ好きの要求に応える“音創りのプロ”がいる。1つの案件で200〜300万円はザラ、ときには中古マンションがまるごと買えるほどの注文があるという。筆者は2枚のディスク(1枚は黒、もう1枚は銀色)を携えて、勇気を出して入った。

高級オーディオ試聴ルームに入る

 マイルス・デイビスとジョン・コルトレーンのLPレコードが展示されたサウンドクリエイトの受付を通る。カーペットが敷き詰められた床、高級オーディオの群れ――あいさつもそこそこに、ちょうどお客さんが去ったオーディオ視聴室に入る。24平方メートルほどの広さ、音の位相を考えた高級オーディオとソファ。英国の高級オーディオメーカー「LINN」のスピーカ、アンプ群、ディスクプレイヤー、LPプレーヤーがラックに整然と並んでいる。

 話もそこそこに、持ち込みディスクのうち銀色の1枚をかけていただいた。LINN「UNIDISK 1.1」のデッキに挿入する。「1曲目、いい音だ……だがそんなに違うだろうか?」。正直よく分からなかった。そして5曲目のアコースティックな曲「レット・イット・ブリード」を聴く。これには音の広がり、生っぽさ、これまで聴こえていなかった音が聴こえる。何度も聴いたアルバムなのに、まるで初めて聴くかの衝撃だ。

 このアルバム「レット・イット・ブリード(ローリング・ストーンズの1969年作品)」に収録されている最後の曲「無情の世界」は、バッハ合唱団のコーラスから始まり、フレンチ・ホルンの響き、ストリングスとミック・ジャガーのヴォーカルがからみあうロックオーケストラだ。スピーカー「ARTIKULAT350」の音を聴き「この曲、こんな音なのか?」と39年の時を経て、新音の発見があった。

高音質CDとレコードをガチンコさせる

 このあと同じアルバムのLPレコードを試聴したが、話をリワインドしておこう。銀色ディスクの正体は、日本ビクターとユニバーサルミュージックが共同開発した高音質CD「SHM-CD」。私が持ち込んだのは、SHM-CD版の「レット・イット・ブリード」と、LPレコード版の「レット・イット・ブリード」だったのだ。SHM-CDとは、2007年12月からロック・ポップス50タイトルほか、ジャズやクラシックの名作を1発限りの限定生産していることで話題の高音質CDである。技術説明はユニバーサルミュージックのSHM-CDサイトを参照いただきたいが、液晶パネル用の樹脂を採用し、高い透明性で従来のCDをあらゆる面で越えたのがこのCD。普通より400〜500円高いが、SACD(高音質CD規格)のように専用機器は要らない。

 これが本当に良い音なのか? それを確かめるためにサウンドクリエイト(機器のセレクトからインストールまでトータルサービス)にうかがった。オールドファンの哀しさで、同タイトルのレコードは所有していても普通のCDがない。レコード対SHM-CDの戦いでは“ハンデ戦”かもしれないが、テーマは「新旧の音のガチンコ」。差がつくかどうか、そこに絞ってみた。


結論:勝負はつかなかった

サウンドクリエイトの鷲野弓枝さん

 LINN「LP12」のカートリッジを落とし、「無情の世界」を比べる。コーラスが始まると、音の広がり、あでやかさ、高揚感が伝わってくる。SHM-CDの音が“無垢な娘の透き通る肌”だとすると、LP12の奏でるレコードの音は“人生の甘辛を知る女の抱擁”である。

 “どちらの音も良い”という予定調和しない展開にうろたえてしまった。サウンドクリエイトの鷲野弓枝さんは「LP12はLINNが1972年の創業とともに発売し、今も生産する名機なんですよ」と語る。「普通のオーディオではこのような音は無理ですが……」と鷲野さんはいう。

 それはLINNが2008年2月に発売した「KLIMAX DS」。デジタルデータを間引き/圧縮しない形式(FLAC)でネットワーク上のHDDに格納し、再生ロスゼロで再現する。我々は携帯デジタルプレーヤーでは圧縮音のMP3を聴かされているし、CDでも音の再現性は80〜90%といわれる。だがKLIMAX DSは“CDを超えるスタジオマスター音源”なので、SHM-CDでなくても、普通のCDやダウンロード音楽でも“絶対音”が作れる。

良い音には満足がない

 「なんだ普通のCDでいいのか(FLAC対応オーディオは実際は少数)。良い音って一体何だろう?」と長考に入る筆者にヒントを与えてくれたのは、オーディオのプロ、藤井貴夫さんのひと言だった。

 「音には絶対解がないんです」 

 音と食は似ている。おいしい食べ物を一度味わう。「うまい」と思えば、さらなるおいしさを求める。そこには明確な目標はないが、舌はもっとおいしいものを求めて食べ続ける。なるほど食に例えてみると、外食には高級フレンチや懐石料理もあれば、手軽なラーメンもある。温かい家庭料理もあればご飯だけの自炊もある。タテ軸はウチか外か、ヨコ軸はできあいか手作りか、マトリクスを作った(図)。

 同じようにオーディオを分類したのが右の図だ。音創りを自分でやるかお任せか、標準で我慢するか一品仕様に凝るか。このように考えると確かに似ている。費用、スペース、時間などの制約条件はあるにせよ、それぞれのマスの中でハッピーになること――それが良い音の追求である。


音への満足を求めて転がり続ける

 だが音とは感性型消費の代表格ともいえるだろう。その特徴は“満足できない”ことで、もっと良い音を求め続けるのである。だから人はそれぞれのマスの中に留まらない。マトリクスをベン図に置き換えてみよう。

 左下のアナログプレーヤー需要は激減し、右のデジタルライブラリ派に移行した。左上の普及型コンポ派もPC音楽ライブラリ派に移行。こうした動きがダウンロード音楽を増やし、CDの需要減に拍車をかける。一方、右上の美音家市場も拡大しており、圧縮音で我慢できない層が増えている。数万円もする高機能ヘッドフォンの流行もその1つ。アナログレコードの流行は、お行儀のよいCDでは我慢できない証拠だ。

 売り手は「良い音を聴きたいだろう?」と誘いだす。しかし良い音にどん欲な音の消費者は、“サティスファクション”を求めて、転がり続ける宿命にある。サウンドクリエイトをあとにした私は、帰りの電車の中でiPodを聴く気にはならなかった。

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