インタビュー
» 2008年02月23日 10時57分 UPDATE

嶋田淑之の「この人に逢いたい!」:海外で橋を架ける“想い”――新日鉄エンジニアリング・浅井信司氏(中編) (1/2)

ベトナムで建設工事中に崩落したカントー橋。この工事を受注した浅井氏は、新日鉄で海外橋りょう部門を社内ベンチャーとして立ち上げた人物だ。社内の猛反発を受けた海外橋りょう事業を立ち上げるにあたり、浅井氏が課せられた条件とは?

[嶋田淑之,Business Media 誠]

嶋田淑之の「この人に逢いたい!」とは?:

 「こんなことをやりたい!」――夢を実現するために、会社という組織の中で目標に向かって邁進する人がいる。会社の中にいるから、1人ではできないことが可能になることもあるが、しかし組織の中だからこそ難しい面もある。

 本連載では、戦略経営に詳しい嶋田淑之氏が、仕事を通して夢を実現するビジネスパーソンをインタビュー。どのようなコンセプトで、どうやって夢を形にしたのか。また個人の働きが、組織のなかでどう生かされたのかについて、徹底的なインタビューを通して浮き彫りにしていく。


 →工事中の橋が崩落するという悲劇――新日鉄エンジニアリング・浅井信司氏(前編)

 2007年9月、建設中に崩落したベトナムのカントー橋。死傷者134人の大惨事となったこの事故は、日本のODA(=政府開発援助)で建設中だったこともあって、日本でも大々的に報じられた。しかし、なぜ日本企業がベトナムで橋を架けていたのか、その理由を説明していた報道は少なかったように思う。

 前編では、カントー橋建設の裏に、現地の人々の切実なニーズと、途上国の経済発展のために自分たちの強みを生かしたいと考える日本の企業戦士たちの“熱い思い”があったことに触れた。

 カントー橋工事を受注した新日鉄エンジニアリングの浅井信司氏は、海外橋りょう事業(海外に橋を架ける事業)を新日鉄で社内ベンチャーとして立ち上げ、育て上げた人物だ。同社において「社内ベンチャーの伝説的カリスマ」と呼ばれる彼は、若き日にどのような「夢」を抱き、そしてどのようにして新日鉄という「超・巨大企業」の中で、現在の立場を確立してきたのか? 本記事ではそれを解明したい。

人望厚き豪傑の素顔

ay_vietnam01.jpg 新日鉄エンジニアリングで海洋橋りょう・ケーブル営業室長を務める浅井信司氏。「今日は写真撮るっていうから、ネクタイ締めてきたんだよー。珍しいだろ?」と笑っていた

 いつも緩めたネクタイ、ワイシャツの第1ボタンは外しっ放し。ジャケットは着てもらえることが滅多になく、いつもその辺に脱ぎっ放しになっている。彼がいるフロアには豪快な笑いが響き渡る。椅子に浅めに座って両足を無造作に投げ出し、茶目っ気たっぷりで人懐っこい笑顔を浮かべながら、際どいジョークを連発する……。

 こうした、いかにもざっくばらんな飾らない態度が浅井氏の魅力だ。しかし新日鉄エンジニアリングのような“カタい”大企業において、こういった豪傑タイプの社員は珍しい。実は浅井氏は、新日鉄サッカー部の選手、コーチ、そして監督として長年活躍したバリバリのアスリートでもある。社会人サッカーにとどまらず、各種目のオリンピック・メダリストたちなど、日本のスポーツ界に今も強力な人脈を有している。

 そんな彼を慕い「浅井さんこそ、私の目標です」と公言して憚らない若手・中堅も多い。彼の薫陶を受けたある女性は、20代半ばの若さ、しかも経理担当でありながら、休暇を使って自費で海外の建設現場を視察に行った。そして本社に上がってくる数字だけでは分からない現場の状況を掌握し、社の上層部に対して「システム・プロセス革新」を迫る意見を具申するなど、積極果敢な仕事ぶりを見せたという。彼女は後に、新日鉄創業以来初の女性海外駐在員として、東南アジアに赴任したそうだ。彼を慕う人々の間には、こうした逸話が溢れている。

 単に「偉大な業績」を挙げる人なら、どんな業界にもそこそこいるだろう。しかし、社内外にその人の“DNA”を受け継ぎたいと熱望する人々が現われるような人物となると、滅多にいるものではない。彼が「カリスマ」と呼ばれるゆえんである。

 しかし彼も、決して最初からカリスマだったわけではない。むしろ、失意と焦燥に満ちた、長い長い下積み時代があったからこそ、今輝いていると言える。

 若いころの浅井氏には、いったいどんな苦労や思いがあったのだろうか?

インド、アメリカ放浪の旅で見た貧困の現実――インフラ整備を志し新日鉄へ

 話は学生時代にさかのぼる。横浜国立大学で経営学を学んでいた浅井氏は、突如休学届けを出して1年間に及ぶインド、アメリカ放浪の旅に出た。

 「今でいうバックパッカーですね。安ホテルに泊まって社会の底辺をさまよいました。そこで目の当たりにした現実はまさに衝撃的でした。『豊かさ』の裏にこれほど悲惨な貧困が存在したのか……と。それで『何とかしなければいけない、自分に出来ることって一体何だろう?』と思案しましたよ」。

 そこで出した結論は?

 「途上国を中心としたインフラストラクチャー(=社会基盤)の整備に取り組もう、これこそ自分に課せられた『使命(=ミッション)』だと確信しました」

 就職活動では、松下政経塾、日本輸出入銀行、日揮の各社で最終面接まで行ったが、海外のインフラ整備でもっとも活躍の舞台が期待できる新日鉄を選んだ。

 ところが入社した彼は、思ってもみない部署に配属された。「就職って、本当に思い通りにならないものですね。入社してみたら、私は海外どころかエンジニアリング部門の経理担当だったんですよ。がっくりきましたねー。毎日、鬱々としていました。おかげで社内では上司とケンカばかり。アフター5は合コン一筋でしたよ」そう言って豪快に笑う。

 しかし、石の上にも三年。入社ちょうど3年目の1986年、浅井氏は待望の営業部門に異動する。「よーし、これで俺の時代が来たぞー、と思ったのですが……」

 異動先はエンジニアリング部門の「国内橋りょう」営業チームだった。国内で建設される、橋の工事の仕事を取ってくるのが彼の業務だった。「当時、国内で営業といえば『接待』が大事でした。夜な夜な銀座、赤坂の料亭、割烹、クラブ、スナックに営業先を招く訳ですよ……初めての経験だったこともあり、ストレスで右肩がまったく上がらなくなりました」。

 ここでもう1度「石の上にも三年」。日本中がバブルの宴に酔いしれていた1989年、思いがけないチャンスが巡ってくる。

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